2012年1月1日日曜日

Eli'ezer and Juda Papo, Pele Yo'ets

Lehmann, Matthias B., 2003, 'Representations and Transformation of Knowledge in Judeo-Spanish Ethical Literature: The Case of Eli'ezer and Judah Papo's "Pele Yo'ets"', in
Jewish Studies Between the Disciplines: Judaistik Zwischen Den Disziplinen : Papers in Honor of Peter Schafer on the Occasion of His 60th BirthdayJewish Studies Between the Disciplines: Judaistik Zwischen Den Disziplinen : Papers in Honor of Peter Schafer on the Occasion of His 60th Birthday
Peter Schafer

Brill Academic Pub 2003-07
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(pp. 299-324)

著者は以下の単著も出版しています。
読まねば読まねば、と思ってまだ読んでいません…。

Ladino Rabbinic Literature And Ottoman Sephardic Culture (Jewish Literature and Culture)Ladino Rabbinic Literature And Ottoman Sephardic Culture (Jewish Literature and Culture)
Matthias B. Lehmann

Indiana Univ Pr 2005-11
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なお、Peter Schaferの著書は最近日本語に訳されました。
ドイツらしい?文献学に基づいた精緻な議論が展開されています。

タルムードの中のイエスタルムードの中のイエス
ペーター・シェーファー 上村 静

岩波書店 2010-11-17
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ペレ・ヨエツはエリエゼル・パポ(Rabbi Eliezer ben Shem Tov Papo, 1785 サライェヴォ生、ラビを務めたSilistriaにて1828逝去)によって1824年、ヘブライ語で出版(イスタンブル)され、息子のユダ・パポ(により1870年及び1872年にウィーンでユダヤ・スペイン語に訳され出版、その後も好評を博したのか1899年及び1900年にサロニカで第二版が出版されたようです(息子は出版後すぐの1873年にエルサレムで亡くなります)(p. 299)。ちなみにM.D. Gaonという人に由来するのか、各種図書館などの書誌情報に親子の混乱や生没年の混乱が見られるようですので、もし調査なされる場合はお気をつけ下さい。
子のユダが父のエリエゼル・パポの遺稿を整理したのか訳したのか、1860年代より彼の名前でダメセク・エリエゼルという、ユダヤスペイン語によるテーマ毎に分類されたハラハーの書物があるせいかも知れません。なお論文の著者によると(p. 302注13)ダメセク・エリエゼル(Orah Haiim)が1860年から1867年にかけてベオグラードで出版、1877年にイズミルで出版、またYore De'aが二巻本でベオグラードにて1865年、エルサレムにて1884年に出版とありますが、1867年にイズミルでも出版されているようです(詳細が分かり次第また追記します)。
(なお、ペレ・ヨエツのヘブライ語版は校訂本(1994)があり、論文の著者による英語版もあります。)

ダメセク・エリエゼルが個別の宗教的テーマを扱ってるとするなら、セファラディ倫理文学に属するペレ・ヨエツはメタ・ハラハー的テーマを扱っている、とのこと(p. 302)。
重要なことに、ヘブライ語とユダヤスペイン語訳では内容の追加どころか、そもそもの論争相手や聴衆までも違うようです。翻訳という作業を考えたら当たり前なのですが、父エリエゼルの手によるヘブライ語原書は同僚のラビたちにピルプールを戒める内容なのに対し、ユダヤ・スペイン語訳ではセファラディ一般大衆の近代知への警鐘とラビ・ユダヤ教の伝統の遵守が主目的なのです。もちろんこれはヘブライ語・ユダヤスペイン語という聴衆の違いに由来するだけではなく、1824年と1860年という時代の断絶にもよります。1839年のオスマン帝国のタンズィマートにより西洋の文物が導入され、フランスからアリアンスが入り、本格的に近代との邂逅を果たしたセファラディ世界において、ユダは単に父の著書を言語的に翻訳するだけではなく、彼の時代において新しく創造し直したといっても良いでしょう。

ペレ・ヨエツの構成としてはダメセク・エリエゼルや他のヘブライ語文学史の伝統にもあるような、テーマごとにアルファベットで配列するというものです。ただどうもこの構成はユダヤスペイン語では厄介だったものらしく、色んなところに飛ばされたりと使い勝手自体はそんなに良くなかったようで、また分冊で出版されたにも関わらずテキストは全体で一冊として書かれているために一冊しか持ってない人は支障があったようです。
このエンサイクロペディア的伝統はもちろんMe'am Lo'ezに連なるもので、願いとしては一般大衆に出来る限りの知識を与えたい、ユダヤ教のコアの部分をしっかりと把握して欲しい、というもののようです。それはパポ自身がこの本を毎日暇なときに読むばかりでなく、安息日にも皆で集まって読まれるよう、ユダヤスペイン語を解する者は男性だけでなく老若男女問わず、また伝統的なユダヤ教学校でも教科書で使われるよう、書いていることからも明らかです(p. 310)。
ただ彼が特に女性に対して極めて先進的であったというわけではなく、それによって家父長制の維持を楽にしようという意図だとか。しかしながら読み書きに関しては最低限読めるように(おそらく自著も含めユダヤスペイン語で書かれた伝統的なユダヤ教書物にアクセスできるように)、という思いはあったようで、それはアシュケナズィーとの比較によって書かれています。曰く、「トルコの地の女性は読み書きを習わないせいでトーラー朗唱や祈祷について非常に無知であり、そのようなことは、皆が皆読み書きが出来るヨーロッパの地のアシュケナズィーの女性の間では滅多にないことである」(p. 310-311, originally Pele Yo'ets 1: 234.)。最終的にはユダは女性のあいだでもシャバットの時などで皆で集まって読んで欲しかったようです。残念ながら20世紀半ばになっても読み書きができるセファラディーの女性は稀なようでしたが。
(前々回に紹介したAlisa Meyuhas Ginioの論文に出てきます。曰く、論文著書の祖母Simha Eliachar Meyuhas(Jerusalem, 1865-1951)はしばしば女性の友人を招き、シャバットのキドゥーシュと朝食の後にMe'am Lo'ezの該当箇所を読んだが、19世紀末、20世紀初頭のエルサレムではそのように読み書きのできる女性は非常に少なく、ラビの家系の娘である彼女は、弟と一緒に家庭教師から基本的な読み書きを習ったとのこと(p. 122))

内容としてはスタンダードなラビ・ユダヤ教の護教書なのですが、ユダヤスペイン語オリジナルの、「エピクロス」として一括して他者化される「外部の教え」に対する攻撃が、世相を反映してか際立っていると述べます(p. 318)。面白いのは彼がカントについて言及していて、彼はそれまでの哲学者の説が間違っていると証明した、と紹介されるのですが、それについて賞賛し、彼によって哲学を勉強する必要がなくなった、と結論します。その上でまだ近代知(哲学や自然科学は特に区別されていないようです)にかぶれる「エピクロス」は「他人を唆すが故に偶像崇拝者より性質が悪い」(余談ですがこの表現は色々な文脈で使われます。一度アンチシオニズムのユダヤ人がレビ記18:21を引用して、同じような論法でシオニストを批判しているのを聞いたことがあります)とし、彼らの間違いを四段階に分類します。一つ、賢者を尊敬しない。彼らは傲慢故に非難される。二つ、ラビ・ユダヤ教の統合的知識に対して疑問視、彼らの好む勉強をしたいと訴える。ラビが彼らの母語で著作をしているにも関わらず彼らはそれを受け入れない。彼ら自身が必要・不必要を判断するところに問題がある。三つ、むしろ伝統的な理想的生活、つまりトーラーの学習と神への献身自体に疑問を投げかけ、ラビ的ユダヤ教の外の世界での自己満足・自己実現を図ろうとする。四つ、最悪なのはこれらの見解を他の者にまで広め、同じように生きることを教唆すること(p. 322-323) 。

また、哲学者を論破・風刺するために、彼らの哲学的前提を利用した次のような寓話を用います。なお、ユダ・パポによると哲学者とは「己の目で見たものをそのまま鵜呑みにせず理性を用いて思考する」という者です。

二人の旅人がおり、ひとりはアレッポから、ひとりはダマスカスからやってきてバグダードで出会いました。彼らは一緒に各々のためのパンを買いましたが、アレッポからの旅人が外に出ている時にダマスカスからの旅人はパンを全部食べてしまいました。アレッポ人はダマスカス人を責め、裁判を起こしました。裁判官の前でダマスカス人は彼の行動を以下のように説明します。
「私たちが街についた時、アレッポ人は宿のドアを先に入りました。彼の言うところでは、自分は賢者(haham)であると。そして実際には彼の方が若いのにも関わらず、老若は年齢ではなく科学的知(cencia)によって図られるべきだと。そこで私は『私だって私の職業である画家、美しい絵を書くことにおいては賢者(haham)だ』と言い返しました。すると『哲学者』は私を責め、目に見えるものなぞ何ほどのものだろうか、と言いました。となると、例えば彼の目には一つのパンと見えても、深いところでは二つのパンではないでしょうか。」
つまり、彼はアレッポ人が外に出ている時にお腹がすいて「眼に見える」パンを全て食べようと決心した、ダマスカス人は「理性の眼で見える」パンが残ってるからそれを食べればいい、ということです。(p. 320)

著者はこの論文で知識社会学の枠組みを使い、「伝統知」が「象徴的世界」を維持するための「異端」への三つの対応、即ち、legitimation, therapy, nihilationという枠組みを使い、それをPele Yo'etsに適応しようとします。結論としてユダ・パポは、①legitimationにおいてはラビ・ユダヤ教の伝統的知識以外を他者化することによって果たし、②therapyにおいてはユダヤスペイン語で一般大衆に語りかけることで異端と戦う社会的陣営を整え、③nihilationにおいては彼らの哲学的前提を逆手にとった寓話を用いて果たしたとします。


なんとなく近代と出会ったら皆が皆伝統から離れていくようなイメージがありますが、上記のような内容・目的であったにも関わらず(そのような目的であったからというべきか)、この本がかなり売れたというのは、個人的に結構予想外です。

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