2012年1月13日金曜日

フーリーの家系とその周辺


Culi, Rabbi Yaakov(trans. by Kaplan, Rabbi Aryeh), 1980(1730). The Torah Anthology: Yalkut Meam Lo'ez Genesis 1, New York / Jerusalem: Moznaim Publishing, pp. xv-xxix.

カプランの英訳Me'am Lo'ezの翻訳者序に記されているフーリーの生涯とその周辺をまとめておきます(pp. xvii-xxii)。
なお、メアム・ロエズ以外の作品は全てヘブライ語作品です。

まず父系から。フーリーの父はRabbi Meir Huli(1638-1727)。まずそもそもこのフーリー家ですが、そもそもはフランスのCholetという町に淵源するらしく、アシュケナズィーのラビに遡ることが史料で示せるとのこと(p. xvii)。その後このCholetからクレタに移住し、フーリー姓となっていくようです。クレタには古くからユダヤ人のコミュニティがありましたが、特にヴェネツィアがビザンツ帝国から1204年に購入して以来、ユダヤ人の数が激増したとのことです。ヴェネツィア人達はクレタの都市を要塞化し、ユダヤ人たちをよく治めていたため、1492年のイベリア半島追放後もユダヤ人たちを吸収し、当時のRomaniot Jews達はセファラディー化したようです。
さてその後オスマン帝国がクレタの奪還を図ります。1645年には島に上陸し、近代史では最も長い期間(ほんと?)、24年に亘って包囲し続けます。その間ヨーロッパから義勇兵がヴェネツィア側に立ち馳せ参じるのですが、最終的にクレタ島全体がオスマン帝国に降服します。これが1669年9月27日のことでした。フーリー家はかなり裕福な家系だったのですが、クレタ島がオスマンの手に落ちたことにより状況の悪化を実感し、1688年、彼が50歳の時点でクレタを離れエルサレムに落ち着きます。

その当時エルサレムにいた学者で有名なのはRabbi Chezkia di Silva(1659-1698, Pri Hadash), 1668年初代のリション・レツィヨンに任命されたRabbi Moshe Galanti(1620-1689), そしてフーリーの祖父となるRabbi Moshe Ibn Chaviv(1654-1696)です。ラビ・モシェ・イブン・ハヴィーヴと会って間もなく、メイール・フーリーは彼の娘と結婚し、1689年ヤアコヴ・フーリーが生まれます(なお彼の生年に関しては二次資料によってブレがありますが、Kaplanの注によると1689年説が説得力を持ちます)。

さて母方の家系ですが、元々はサロニカの出らしく、モシェ・イブン・ハヴィーヴは1669年にエルサレムに来たとのこと。そして上記モシェ・ガランティの妹と結婚し、一時(1677年に確認できるとのこと)はコンスタンティノープルにいたが、その後慈善家のMoshe ibn Yaush of Constantinopleによって、エルサレムにイェシヴァーを作るために戻されたとのこと。このモシェ・イブン・ハヴィーヴはEzrath Nashim(一人だが正式な離縁状を持たない妻を論じた作品), Get Pashut(離婚についてのハラハーを論じた作品), Yom Teruah(ショファルについての作品), Tosefoth Yom Kippurim(大贖罪日のハラハーについて), Kappoth Temarim(スコットの四種の祭具について)という作品をものし、後半三つはShemoth be-Aretzとしてまとめられているようです。
このイブン・ハヴィーヴ家ですが、この家系も学者の家系で有名な学者を輩出しています。一人がRabbi Yosef Chabiba(15世紀?)、Nimukey Yosefという、Rabbi Yitzhak Alfasi(1013-1103)のSefer ha-Halachotのコメンタリーを書いた人です。もう一人はRabbi Yaakov ibn Chaviv(1459-1516)、かのEyn Yaakovを著した人です。Kaplanなんかは「カプランは彼の先祖が当時の偉大なタルムード学者の一人であり、大衆向けのEin Yaakovを著したという事実に感銘を受けた」(p. xix)と書いていますが、出典が書かれていないので何とも言えませんが、是非見つけたいです。

ようやくラビ・ヤアコヴ・フーリー本人に辿り着きました。前述したとおり彼は1689年エルサレム(ツファットというMolhoの見解もある)に生まれ、祖父モシェ・イブン・ハヴィーヴの膝の上でスクスクと育ち、6歳にして祖父のタルムード解釈に質問するまでになったそうです。その後彼が7歳の時に祖父が亡くなりますが、どうも祖父及びおそらく祖父の出自に関してはかなり意識していたみたいで、メアム・ロエズのプロジェクトを開始する前のフーリーは祖父の作品・遺稿の整理を行い、アシュケナズィーの世界ではむしろそちらの方で有名です。
祖父が亡くなった翌年、今度は実母が亡くなってしまい、その後フーリー親子はヘブロン、次にツファットに行きます。ツファットで彼は祖父の遺稿の整理・編集を始めたようです。1713年に聖地への旅をしていた、印刷業も営むコンスタンティノープルのラビ、Chaim Alfandriに出会い、二人で一年(エジプト経由)かけてコンスタンティノープルに辿り着きます。それが1714年のことでしたが、当地ではまだシャブタイ・ツヴィの後遺症が響いていたようで、モラルの低下やユダヤ教離れが著しく進んでいる現状を付きつけられたようです。当地で教師の職を得ながら祖父の原稿整理・編集を続け、Chaim Alfandri及びその親類のYitzchak Alfandriの援助を受け、1719年にOtorokoiにてGet Pashutの印刷に成功します。さて当時のコンスタンティノープルのリーダーはRabbi Yehudah Rosenesだったのですが、フーリーの若き才能に目をつけ、彼のもとで働かせ、当時弱冠30歳にも関わらずBeth Din(ラビ法廷)のメンバーに任命します。その後数年してコンスタンティノープルの師、Rabbi Yehudah Rosenesが亡くなるという悲しみとともに、祖父のShemoth be-Aretzを出版します。
祖父の遺志を果たした今、フーリーが次にやるべき仕事は、もう一人の師、Rabbi Yehudah Rosenesの著作を整理・編集し、世に出すことでした。彼が亡くなって一年後には既にParashath Derakhim、族長時代の自責からハラハーを引き出した説教集を出版します。なお、この本の序文にはフーリー自身が作品について、また師を喪った哀しみについて述べられています。
しかし、フーリーの名をMe'am Lo'ez以外でも輝かしめているのは、Mishneh la-Melekhという、マイモニデスのミシュネー・トーラーの註釈書です。ヘブライ語版のYalkut Me'am Lo'ezで訳者のShmuel Yerushalmiがフーリーを「Mishneh la-Melekhの編集者」として紹介しますが、それほどまでにこの作品はユダヤ人学究者の間で受け入れられたようです。ミシュネー・トーラーは(私も一部読んだことがありますが)、読者にとっていまいち良くわからない箇所が散見され、またその典拠が示されていないという作品で註釈が必要なのですが、このMishneh la-Melekhはフーリーとその師の共同作品のようになっているようで、今でもミシュネー・トーラーに大体これがセットで載っているとのことです。本作品の編集にフーリーは3年をかけ、1731年に出版。その8年後にはミシュネー・トーラーとセットで印刷されたようです。

それと同時に1730年、同僚ラビの無理解にも関わらず自分の信念に従い、大衆向けにMe'am Lo'ezの創世記を完成・出版。本人自身は出エジプトの途中まで執筆した後、1732年8月9日(アヴ月19日)に若くして世を去るのですが、本書はシャブタイ・ツヴィ騒動で疲弊したセファラディー世界の「精神的ルネッサンス」とも言うべき大復興を巻き起こし、それだけでなく、本書によってその後200年以上続く「ユダヤ・スペイン語文学」の幕が開けることになります。メアム・ロエズというプロジェクト自体は今までのエントリーでも紹介したとおり、彼が序文に書いたように、彼の遺志をついで有徳の志が後に続き、完成させていきます。

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