2012年1月11日水曜日

The Me'am Lo'ez and its Various Editions

Roditi, Edouard, 1993. 'The Me'am Lo'ez and its Various Editions', European Judaism 26(1), pp. 17-23.

(及びRoditi, Edouard, 1992. 'The New Spanish Edition of the Me'am Lo'ez', Midstream 38(5), pp. 27-31. も参照。以下引用頁は93年論文より)

メアム・ロエズMe'am Lo'ezは調べ始めたところですので、まだ不確かなことしか言えませんが、研究の余地がかなりあるなあと感じています。この作品に対するアプローチはたくさん考えられますが、その中でもこの論文は文献学的研究の必要性・可能性を論じております(p. 22)。
まずそもそもの話ですが、英語・ヘブライ語全訳は存在する(偉業だと思います)が、ユダヤ・スペイン語の校訂版が全て存在しているわけではない。そのような中でスペインで60年代・70年代に校訂版が創世記・エステルと出たのを讃え、これを機に研究が進めばいいなあ、というのが著者の思いのようです(p. 17)。しかし2012年現在の状況として、内容を取るだけなら英語・ヘブライ語が別に入手困難というわけではないので構わないのですが、校訂版がこれだけしか出揃っていない現在、原典を気軽に参照できないのは正直辛いものがあります。さらに言うとどうもこのスペイン発校訂本はどうも評判が芳しくなく、この校訂版が出た後もあまり研究者の間で使われていない(結局原典を参照して引用している)という現実があります。「メアム・ロエズを研究してやろうなんて(奇特な)奴はアーカイブにこもるか、自分で手に入れるような人間なのだ!」というのは分からないでもないのですが、それではただでさえ少ない研究者が一向に増えず、本論文の著者Roditiでなくても嘆きたくなるのがわかります。

さてこの論文は著者の遺稿(1910-1992、上記掲載の1992年発表の論文草稿が93年に発表された?内容はほぼ同じで93年の方が敷衍的)になってしまったようですが、重要な指摘をしています。著者自身はフランス生まれ、詩人・小説家・翻訳者・インタビューアーとして有名らしいですが、出自はセファラディー系。この論文の中で述べてますが、Roditiという姓はギリシャのロードス島に由来し、中世末に聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)によってロードス島を追放されたユダヤ人の子孫である証左とのこと(p. 20)。勿論当時はまだ14世紀ですから、イベリア半島からのユダヤ人追放もオスマン帝国の受け入れもない(というよりビザンツ領)ですので、この時点では彼らは(ユダヤ・)ギリシャ語を話すRomaniot Jewsということになります。彼らはビザンツ領内のSmyrna(イズミル)に主として定住(当時ヴェネツィアの植民地だったクレタ島やサロニカにも行ったという史料が残っているようです)し、1492年以降はスペイン・ポルトガル系ユダヤ人、即ちセファラディーのコミュニティに同化していきます(pp. 20-21)。

ちなみにこれも日本ではほとんど知られていないと思いますが、このRomaniot Jews、近年までギリシャのIoaninaにコミュニティがあったようで、ユダヤ・ギリシャ語を話していたようです。勿論このブログの過去のエントリーで何度か紹介してるように、ギリシャのユダヤ人コミュニティは他の多くのヨーロッパ諸国と同様徹底的に破壊されてしまったので、今はその栄光を偲ぶことしかできないようですが。

閑話休題。さてイズミルに居を構えたRoditi一家ですが、イズミルのユダヤ人コミュニティの中ではかなりの名家となったようで、特に出版・校訂の分野で頭角を現します。
メアム・ロエズの文献学的研究に関して重要な指摘は、1864~1870年出版のメアム・ロエズ、即ち1864年創世記の6版(*1)、1864年・1865年出エジプト記の5版(*2)、1866年レビ記の5版(*3)、1867年民数記6版(*4)、1868年申命記3(or4)版(*5)、1870年ヨシュア記の初版はPontremoli(1864年にエステルのメアム・ロエズを出版しています)の助けも得て、Benjamin Roditi(著者は傍系の子孫とのこと)とPontremoliの二者が大幅に「手を入れている」とのことです(p.20)。「手を入れる」とはどういうことかというと、「誤植を正し、当時・当地の話し言葉により近づけた」(p. 20)とのこと。その当時・当地の話し言葉は「italianisms, gallicianisms, borrowings from Turkish」(同)ということで、タンズィマートを経験し、言語変化が進んでいる状態のようです。
これは近現代を問わず、再版をする際の出版者(社)に共通の姿勢だと思いますが、やはり改めて指摘されると、エディションの違いの重要性を感じます。ちょうどこの前のエントリーでご紹介した通り、個人的にこの時期のイズミル出版のメアム・ロエズ創世記を買い、加えてその次の版、つまり1897年サロニカの創世記も買ったので、「ふーん」で終わる問題ではありません。仮に訳等を作ろうと思った時、やはり図書館等で他の版も確認しなきゃいかんと思わされました。創世記はJewish Booksや各種抜粋エディションである程度見れるのでまだましですが。
この辺の話は、一つ前のエントリー、Ze'enah u-Re'enahにも共通する話ですね。先に読んだのはこのメアム・ロエズの論文でしたけど。

なお、この時期にここまでイズミルが頑張ったのは、ちょうど1830年代以降の沿岸部・ギリシャ・コーカサス情勢の悪化等の影響が少なかったためと、ちょうどこの時期にマンチェスターからのコットンの輸入、そしてこちらのほうが重要のようですが、スエズ運河が開通するまで絨毯・イチジク・ナッツ他のオスマン領内の産品をバグダッドやイランに輸出するための基地としての役割を果たしたからとのこと(p. 20)。この時期のイズミルのメアム・ロエズ「再版攻勢」によって、これまではモーセ五書のみであったメアム・ロエズ事業がモーセ五書以外にも拡大されることになります(p. 21)。

著者はメアム・ロエズや他の著作の研究が遅れていることに対して警鐘を鳴らしていますが、その理由は現存する書物自体がそこまで多くなく、気づいた頃には保存状態が悪すぎて研究できなくなってしまうのではないか、という点(p. 22)。フェズ(モロッコ)のシナゴーグの屋根裏「ゲニザー」でボロボロのメアム・ロエズ(ユダヤ・スペイン語)が発見されたことを引き合いに出して紹介しています(同)。

このRoditiの警告がどれだけ活かされたかについてはまだ判断を控えますが、膨大なメアム・ロエズの世界に分け入って少しでも発信できればと思います。

なお、メアム・ロエズはユダヤ・アラビア語訳もあるようですが(*6)、その点について仮に著者が個人的に知っていることがあったのであれば、そのことも書いて欲しかったです。あったのかどうかは分かりませんが。






(*1)初版1730年コンスタンティノープル、2版1748年同地、3版1794年サロニカ、4版1822年リヴォルノ、5版1823-25年Ortokoi(この版は不明な点が多いらしい)、6版1864年イズミル、7版1897年サロニカ

(*2)数え方が難しいが完全版のみを考慮すると5版。前半1733年コンスタンティノープル、後半1746年コンスタンティノープル、完全版2版1753年コンスタンティノープル、完全版3版1823年リヴォルノ、完全版4版1859-1865年サロニカ、完全版5版1864及び1865年イズミル、完全版6版1884-1886年エルサレム

(*3)初版1747年コンスタンティノープル、2版1753年コンスタンティノープル、3版1803年サロニカ、4版1822年リヴォルノ、5版1866年サロニカ - イズミル

(*4)初版・2版ともに1764年コンスタンティノープル初版、3版1803年サロニカ、4版1815年サロニカ、5版1823年リヴォルノ、6版1867年イズミル)

(*5)初版前半1773年コンスタンティノープル、後半1777年コンスタンティノープル、完全版2版?1822 or 1823年リヴォルノ、Ve Eth Chananまで1829年サロニカ、Ekevまで1868年イズミル、Ve Et Chananまで1883年サロニカ

(*6)1886年アルジェ(Bereshith and Noah)、1889年ジェルバ(Lekh Lekha to Toledoth)、1891年アルジェ(Va Yetze to Va Yechi)、1894年アルジェ(Shemoth to Bo)

なお上記校訂版のリストについては、投稿者がR. Aryeh KaplanのThe Torah Anthology Vol. 1(pp. 463-466.)と本論を参照し、Kaplanの不足分を補った。

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