2012年1月17日火曜日

クルアーンの「十の戒め」その後


前回のエントリーに関してですが、17章よりも6章151-153節ではないのだろうか、と某教授が教示されているのを知りました。
私自身も他にないかと探してたのですが、確かにここの方が「列挙」という表現には合いそうです。

言え、「来るがよい。おまえたちの主がおまえたちに禁じ給うたものを私が読み聞かせよう。おまえたちは彼になにものをも並び置いてはならない。そして、両親には善行を。また、困窮からおまえたちの子供を殺してはならない。われらがおまえたちと彼らを養う。また、現れたものにしろ隠れたものにしろ不道徳に近づいてはならない。また、アッラーが禁じ給うた命を正当な理由なしに殺してはならない。これが彼がおまえたちに命じ給うたものである。きっとおまえたちは考えるであろうと」。(Q6:151、日本語訳は中田香織訳、中田考監訳『タフスィール・アル=ジャラーライン』第一巻、日本サウディアラビア協会、2002年より。363−364項。)
孤児の財産には、彼が成人に達するまで、より良いことをもってのほか、近づいてはならない。升目と秤は公正に量りきれ。我らは誰にもその能力以外のものを課すことはない。また、おまえたちが言う時にはそれが近親の者であっても公正にせよ。また、アッラーとの約束は果たせ。これが彼が命じ給うたことである。きっとおまえたちは教訓を得るであろうと。(152)
これがわれの真っすぐな道である。それゆえ、それに従え。諸々の道に従ってはならない。それらはおまえたちを彼の道から離れさせる。これが彼がおまえたちに命じ給うたことである。きっとおまえたちは畏れ身を守るであろう。(153)

確かにこの箇所の「要約」ですと、件の問題のような「十の『戒め』」として抽出できるかも知れません。というわけで、一つ前のエントリーで「改竄」と言いましたが、この箇所を元にしているのであれば「改竄」とまでは言えません。訂正致します。
勿論これは「クルアーンのこの箇所の要約としては的確」、という意味以上のものではなくて、他ならぬこの三節を抜き出して、特別に「十の戒め」と呼ぶのは極めて恣意的であり、少なくともイスラームの伝統に則ったものではないと思います。

これも別の研究者の方の指摘なのですが、有名なبني الإسلامで始まるハディースには六信五行の「خمس五」という数字がはっきり出ているのですが、このように数が示され、そのことにコンセンサスがあるのはイスラームでは稀だそうです。個人的な印象といて、イスラームの学者の各々の著作(セファラディーも同じようなメンタリティだと聞きますが、まだなんとも言えません)は極めて整然と整理され、「~は大きく二つに大別される。」「~には三種のものがある。」という風に書いている文章が多いような気がしますが、言われてみれば確かにそうかなあ、と思わされます。

なお、「十戒」ではないですが、シーア派のハディースでبني الإسلامに似たものがあるそうなのですが(内容ちょっと違う)、この場合礼拝、断食、巡礼、浄財、ولايةイマームの権利の承認、の「五行」とはならず、これにプラス5(とولايةの変更)の項目を立てて、謂わば計「十行」、即ち「礼拝断食巡礼浄財、ジハード、5分の1税、善の命令、悪の禁止、تولى آهل البيت「家の人びと」への忠誠、تبرآ(前のものに敵対する人びととの)絶縁、とするのが通説とのこと(12イマーム派以外も?)。私はシーア派はあんまり良く分からないのですが面白いですね。なおこの場合も件の問題文は「クルアーンには…」とあり、ここではハディースの話をしているのでこれが「十の戒め」とはなりません。念のため。

さて相変わらずこれの出処が気になっているのですが、嫌味でもなんでもなく、日本語でも良いのでもし本かなんかで見つけたのであれば、その出典を知りたいのです。あんまり類書がないので。というのは、これ、もろ「イスラーイーリーヤート」だからです。古典で出典があればいいのですが、現代の学者が書いた本にはまだ今のところ見つけられていません。

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