2012年4月28日土曜日

ロックミュージックの社会学(1)

ロックミュージックの社会学 (青弓社ライブラリー)ロックミュージックの社会学 (青弓社ライブラリー)
南田 勝也

青弓社 2001-08
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最近は社会学・音楽学の本を手に取ることが多いのですが、これもその中の一冊。
勿論自分自身は専門ではないので読んで「ふうむ」とか思うくらいなのですが、この本は「ふうむ」に終わらず、随分興奮しました。10代の頃からの自分の「ロック」分析とその歴史の記述と基本線において軌を一にし、さらには自分自身の目の届かないところも(当たり前ですが)キッチリと俎上に乗せてくれているからです。

自分自身は、今となってはそこまで「ロック(ミュージック)」に思い入れがないのですが、大多数の若者と同じ程度かそれ以上には聴いてきた・関わってきた経験があります。
それまでも巷の流行曲やゲームのサントラなんかにも親しみはあったのですが、そもそも真面目に音楽に対して向かい合い始めたのは、おそらく中学生の頃からでしょうか。もう遙か時の彼方なので少し自信がないのですが、中一の頃に10歳ほど年上の友人にもらったzabadakを聴いてから、「音楽」という存在のウェイトがぐっと増したような記憶があります。その後遅ればせながらX(定番ですね。まだ現役でした)を聴き始め、「ロック」というものを強く意識し、音楽遍歴が始まった気がします。その後中二の頃に家のレコードプレイヤーから流れてきたQueenの「Bohemian Rhapsody」とカルメン・マキ&OZの「私は風」に度肝を抜かれ、「ロック」遍歴は始まったのでした。
前者によってプログレ(ッシブ・ロック)の扉が、後者によってHR/HMの扉が開かれ、中三の終わり頃からは主に前者の道に進むことになるのでした。後者はともかく前者については音楽的嗜好を共通とする友人はほとんどおらず、孤軍奮闘でしたが…。

音楽遍歴について書き始めるときりがないのでまたの機会に。
言いたいことは、自分は「ロック」なるものを多少なりとも聴いてきた。その経験から「これはロックである」「これはロックでない(ポップだよ)」等の判断を自覚的無自覚的に下している。つまり「ロックを語る(判断する)場」に参加している──ということです。


本書は全7章ですが、大きく前半(1〜3章、4〜終章)と後半に分けることが出来ます。
前半の第1章 ロックミュージック文化の三つの指標、第2章 ロック<場>の理論、第3章 ロック<場>の展開、は、社会学の理論に基づいて欧米文化発の「ロックミュージック」及びその<場>を分析・史的記述したもの、第4章〜終章 日本のロック─60、70、80、90年代、は欧米文化発のロックが日本においてどのように受容・展開されたかを記しています。

全章が興味深いので、順番に。


第1章では1960年代中期から後期にかけて「ロック(≒ロックンロール)」なるものを成立させる要素及び「ロック」であることを決定づける価値観の体系を、

①社会的布置での「下方向」志向を意味する、<アウトサイド>指標
②純粋芸術へ挑戦し続ける、<アート>指標
③ポピュラリティを獲得していく、<エンターテイメント>指標

として提示します。

この「ロック」成立時の60年代中期から後期にかけては、世界的な対抗文化のうねりの中、偶有的にこの3つが相互矛盾することなく渾然一体となった瞬間であり、後に「ロック」の原風景として参照されることになります。

この三つの指標のうち個人的に面白いなと思ったのが、③の<エンターテイメント>指標です。ロックの前身は当然ながらロックンロールですが、そのロックンロールはエンターテイメントに大きな比重が置かれていました。ロックはポピュラリティを捨て<アート>に特化していくジャズとは違い、自身をある一定層(若者やマイノリティ)を代弁するものであるとする傾向がありますが、そのような自己認識もあって、ロックンロールの正当な嫡子である(と自認する)ロックはエンターテイメントを捨てなかった。
この<エンターテイメント>指標に関連するものとして、商業主義の問題があり、後に二つの指標と激しく争うことになります。「商業ロック」や「飼いならされたロック(=ポップ化)」として批判されるような問題です。ですが、この60年代中期から後期にかけての時点では対抗文化自体が独自の流通システムを用意していたため、そのシステムに乗るならば大資本が独占する流通ルートを使わずに済む=<アウトサイド>性を確保できるため、問題にならなかったと解説します。なるほど。


第二章はブルデューの<場>理論を用いて「ロック<場>」という分析装置の構築に向かいます。その目的とするところは「何をもってロックとするのか」「どのような社会的ポジションをロックと感じるのか」という曖昧模糊とした質問に答えることです。

本書の図表(p. 59、圧巻!)を見れば大体は理解できるのですが、ここでは高級音楽芸術(≒西洋クラシック)<場>とロック<場>を垂直軸・社会空間(上流・中間・下層)に中心点を共有する三角形として合わせ鏡のように布置し、横軸には前者においてはピュア・アートとインサイド指標をとり、後者においては<アウトサイド>指標と<アート指標>をとります。中心点には大衆化<エンターテイメント>指標を置き、商業主義・消費社会の要請としての文化的正当性の異化・無化を、全体と合同する四角形として置きます。

試しに文章にしたらさっぱり分からない(幾何学はダメです)ので、買って見てみてください。
しかしこれは異常に優れた図です。
この「ロック<場>」が如何に優れているかということは、次章以降の<ロック>史(≒ロック史)の記述で明らかになります。


さて第三章は承前の分析装置を用いて<ロック>史を記述していきます。

70年代に入り対抗文化や学生運動は下火となっていきますが、それに呼応するかのように「ロック」の狂騒も下火となり(ビートルズも解散しますね)、70年代中期までに「ロック」の分化が起こります。
「分化」とは、上記三指標のいずれかにウェイトを置き・置いてるとみなされ(勿論他の指標を排除するというわけではない)、それが「ジャンル」として成立していくプロセスを意味します。

<アウトサイド>指標を志向した「ロック」は、60年代末の対抗文化の衰退を受け、この時期「穏当なるアウトサイダー」として振る舞い、中央文化に対する「周辺文化」を基盤とした「ロック」を創り出した、と述べます。彼らの向かう先は(アメリカでは、という限定があった方がいいと思います)「土」「郷愁」といったものを感じさせるジャンル、つまりサザンロックやカントリーロックと名付けられます(デュアン・オールマン華やかりし頃のオールマン・ブラザーズ・バンドの活動時期やザ・バンドを思い起こしましょう)。以上はアメリカでの話ですが、イギリスではグラムロックがこれに当たるとのこと。グラムロックが<アウトサイド>と言うのは少し意外の感がしますが、確かに通常の社会通念の埒外(「ジギー・スターダスト」に至ってはもう異星人です)に存在している、というパフォーマンス(設定)はそうですね。著者はこの70年代前半という対抗文化挫折の時期に<アウトサイド>指標を強く志向するグラムロックがこのようにアウトサイダーを「戯画化」して演じてみせるのは非常に象徴的だと述べます。

<アート>指標を志向したグループは、「ロック」を高級芸術音楽と同等の地位にまで引き上げようとし、音楽理論を駆使し、技巧を凝らし、ちょうどクラシックの分野で現代音楽が試みたようなことをし始めます。後に「プログレッシブロック」と呼ばれるジャンルです(思えばクリムゾンの1stアルバムがアビーロードをチャートから蹴落とした(という話)のも69年も終わりに差し掛かる頃です)。彼らは「芸術」としての「ロック」を追求していったがために、それはロックンロールの系譜である「踊る」ための<エンターテイメント>から、「聴く」ための<アート>へと強く志向することになります。確かにこの頃のプログレのコンセプトアルバム(思いつくまま適当に挙げましょう。「海洋地形学の物語」「The Snow Goose」「A Passion Play」「狂気」)なんかを聴いてると、エルヴィスやチャック・ベリーの直接の嫡子とはもう思えませんよね。ロックは第一に<エンターテイメント>である、と考える層にとっては、もうこれらの音楽を「ロックである」と言うのに躊躇してしまうかも知れません。受容者層の分断化が見てとれそうです。

<エンターテイメント>指標を目指したグループはその後どのようにジャンル分けされるのかというと、ここで出てくるのがハードロックだと述べます。オジーのパフォーマンスやディープパープルのライブアルバムの盛り具合、クイーン来日時の狂騒などを思い出すと、確かに彼らはまずプロの「エンターテイナー」であるというような気がします。

勿論、前にも少し注意書きを入れましたが、この三つの指標のうち一つ「のみ」に特化するということは妥当ではありません。イエス・ソングスやオールマンのフィルモア・イーストを聴いていると彼らのライブは超一流のエンターテイメントですし、ツェッペリンやクイーンの音作りは確実に<アート>を志向しています(だからこそ「ジャンル分け」が難しいのですが…)。

しかし著者によるとこのハードロックの<エンターテイメント>志向の流れはエアロスミスやキッス等(おお、彼らはデビューする頃にはもう70年代中盤に差し掛かろうとしています)を想起すると、もうその頃にはハードロックは<エンターテイメント>指標を代表するロックの下位ジャンルと認識されるようになっていた、とのこと。
(そう考えると73年デビューのクイーンの<エンターテイメント>と<アート>の両立(してると思ってます)が際立ちますね)

以上ここまでが、パンク出現以前の<ロック>(=まだ「ロック」)の状況です。
個人的にはロックンロール発祥の地・アメリカとイギリスを引っ括めて考えて良いのかなという気がしないでもないですが、なかなかに興味深いですね。

今思いついたのは、カンサスのロビー・スタインハート(Vn.)がインタビュアーに「あなた達の音楽はプログレだって言われてるけど?」と質問された時、「いや〜、ロックンロールだろ〜」と答えたという話です。自分は常々彼らを「プログレ」に分類することに違和感を感じていたのですが、彼らは(少なくともロビーは)エンターテイナーとして自分たちを位置付けていたんですね。彼らは初期(2ndまでが特に)は南部をルーツとした音作りをモロにしており、そういう意味ではサザンロックに分類されるのですが、ロビーのヴァイオリンと変拍子の多様、演奏能力の高さと凝った曲構成のせいで<アート>指標が強いとされ、プログレに分類されているのでしょう。ただ二回ライブに行った身として、また先のロビーの返答を受けて、サザンロックかハードロックに入れてあげたいですね。

さてこの時期<アウトサイド>指標に分類される「ロック」は、明らかに既成の価値観への挑戦や反骨精神といったものを欠いたように見えるのですが(正直自分にも<エンターテイメント>との違いがほとんど見えないくらい「薄い」)、それは当時「ロック」に「アウトサイダー」としての役割を期待する層からしてもそうだったようで、70年代後半に入った頃に「アウトサイダー」による「ロック」奪回が起こります。

言わずもがな、パンクです。

長くなったのでまた次回に。ちょっと気合入りすぎました。

2012年4月26日木曜日

ご無沙汰してます

こんにちは。
気づけば3ヶ月もこちらのブログをほっぽらかしにしてました。
特に何かあったというわけでもなく、更新しないうちになんとなく3ヶ月が過ぎてしまいました。
ここでは「アウトプットの場を創出する」というのが目的なのですが、面倒くさがるとすぐ止まっちゃいますね。というわけで再開します。
この3ヶ月の出来事を書いていくと、

・ウルパンが終わった
・休みはだらけた
・国内とヨルダン(アカバ・ペトラ)を少し旅行した
・ウードを始めた
・祭りがあった
・後期が始まった
・少し一時帰国した

これくらいでしょうか。
色々書きたいことは溜まってるのですが、まずは再始動するぞという決意から。
形から入る主義なのでデザインを変更。

2012年1月21日土曜日

Rabbinical Exegesis in the Judeo-Spanish Romancero

Salama, Messod, 1997. 'Rabbinical Exegesis in the Judeo-Spanish Romancero', in Michel Abitbol et. ed. Hispano-Jewish Civilization after 1492, Jerusalem: Misgav Yerushalaym, pp. 55-80.

セファラディーによるスペイン語のロマンスを扱った論文です。
伝統的にこの分野ではスペイン本国の研究が強いのですが、どうもスペイン文学史やスペイン語史の傍流として研究してる研究者が多いためか、この分野ではヘブライ語やユダヤ教の知識が十分ではない、という事情があるようです。そのせいもあってか、大体のスペイン語詩研究者は、ユダヤスペイン語で創作された詩の独自性である、ユダヤ教の聖書解釈伝統についてほとんど無視してきたとのこと(p. 59)。

またスペイン本国の研究社はセファラディーによる詩作を、スペイン文学創作史の延長(イベリア半島では見つからないので「レア」)として捉える傾向があるのに対し、セファラディー研究者はどちらかというとそのような見方というよりは、単にスペイン語を使っているだけで別物、とみなす研究者が多いようです(p. 58)。

この分野に関しては私は素人のためその肌感覚がまだいまいち分からないのですが、スペイン本国のセファラディー研究は、特に詩やコプラに関して量が多いので気にはなっています。
ただスペインによる研究は時代によっては新伝統主義のバイアスがかかっていることもあるようなので、それは注意しなければなりません。(p. 58 註8)


さて聖書に取材したスペイン語詩はユダヤ人の占有物ではなく、追放以前にも詩作されたものであり、どうもそれを元にラビユダヤ教の聖書解釈伝統を織り込んでいったようなのですが(p. 67)、その例として著者は数種あげます。
一つはアケダー、アブラハムによるイサク献呈。これは私が原典で確認したものとしては偽ヨナタンなのですが、イサクがまさに屠られようとする直前、聖書では寡黙であったイサクがアブラハムに「ちゃんと動かないよう、犠牲としての義務を全うできるように縛ってけろ」とお願いする描写です(p. 71)。
そしてもう一つはこれに関係しますが、その後語られるサラの死因。これも個人的には偽ヨナタンで読んだのですが、サタンが関わっており、アケダーのことをバラしてサラがショック死するという解釈伝統が取り入れられているようです(p. 73)。
他にはモーセとイスラエルの民が紅海を渡る際に神が起こした奇跡に関して、イスラエル部族の数である12の道に割れた、飲み込まれたエジプト軍はファラオを除き全員溺死した、ファラオは悔い改め神を賛美したため九死に一生を得、その後ニネヴェを統治することになった等々の例が述べられています(pp. 73-79)。

ロマンスの伝承には聖書解釈の伝統も入っており、そのユダヤ教の聖書解釈の伝統が母から子へと歌い継がれた、というのは重要で、少しロマンチックですね。ラビ的・ヘブライ語的世界=学問世界とは別の世界である、名もなき大衆が後代へ伝える伝承と伝統の力強さを感じます。

2012年1月19日木曜日

イディッシュ・日本語辞典に賞賛の声

イディッシュー日本語辞典である、『イディシュ語辞典』が2010年に遂に完成し出版されたのですが、その辞書の編纂者である上田和夫先生とその辞書の紹介が、英語のユダヤ系日刊紙「The Jewish Daily FOWARD」、及びヘブライ語訳が「ハアレツ」に掲載されているとの報を受けました。

The Jewish Daily FOWARD
http://www.forward.com/articles/149439/

הארץ
http://www.haaretz.co.il/news/world/1.1620886

イディッシュ語辞典イディッシュ語辞典
上田 和夫

大学書林 2010-08
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この辞書が大学書林から出版されていたのは知っていたのですが、ただいかんせん税込63000円という値段に尻込みして、まだ未購入です。
この辞書のことはYiddishistの間でも話題になっているようで、イディッシュの話題になるとよく「この辞書出たの知ってるか?」という話になります。
他の国に比べ、日本社会ではイディッシュに対する関心が強い(んですよ)のですが、それもひとえに上田先生の功績によるところが多いと思います。上田先生は多数のイディッシュ語に関する教材をものしており、日本語で学べる環境がかなり整っております。
私自身も上田先生をはじめとする先達の恩恵をかなりうけておりますので、後続の一人として、この辞典がアメリカ・イスラエルのユダヤ人社会で紹介されたことを大いに言祝ぎたいと思います。

2012年1月17日火曜日

フリースラント恐るべし

今日面白い話を聞きました。

イディッシュ語の先生が仕事でオランダに行った時の話なのですが、フリースラント(Fryslân)に行って郊外のSneekという街に行った折、中学・高校に当たる中等教育機関に見学に行きました。そこでゲルマ二ストの先生と話が盛り上がり、折角だから、ということで学校の見学をさせてもらうことになりました。通された教室(10年生)は近代的なもので、黒板などという前時代的なものはなく、スクリーンがかけられるのみ、ペンやノートなどという遺物はどこにも見られず、生徒一人ひとりにパソコンが与えられていたことにまずびっくりしました。

そして、これはオランダの事情みたいなのですが、科目ごとに先生が使う言語(オランダ語・フリジア語Frysk・英語)を決めるそうです。化学は英語、歴史はフリジア語、文学はオランダ語…と言った風に。これにも驚いた。
その後そんなことも全部吹っ飛ぶほど驚いたのは、そのゲルマニストの先生の質問に対する生徒の反応。イディッシュの先生がそこにおられたので、次の質問がされました。

「イディッシュ語って知っていますか?それは何?」

その瞬間「その教室のほぼ全員の生徒」が挙手をし、なんと当てられた生徒がスラスラと

「イディッシュ語は西ゲルマン語系に属する言語で中高ドイツ語に淵源し…」

と答え始めたというのです。「知ってる〜、ユダヤ人の言葉でしょ~」くらいの答えを予想していたので、話を聞いてた私もぶったまげました。
さらにゲルマニストの先生が続けて、

「よろしい。ではイディッシュ文学について何か知っていることを教えてください。」

と質問すると、数人の生徒が挙手し、ある女生徒が答えて曰く、

「少し記憶が曖昧で自信がないのですが、アイザック・バシェヴィス・シンガーはイディッシュで著作をものしたように記憶しております」

と答え、ここまできたら隅で聞いていたイディッシュの先生、驚くというよりも、もう恥ずかしくていたたまれなくなったそうです。

果たしてフリジア語に関して同様の質問をされた時、この子達程に答えられるだろうか?
イスラエルで同じ質問を同じ歳の子にして、果たしてどれだけの子がきちんと答えられるのだろうか?

この話を聞いていたイスラエル人も「フリジア語ってなに?」というレベルだったので、ショックだったみたいです。
これを奇貨とし、皆少数言語に関し関心を持って学んでいければいいですね。僕もヨーロッパの言語に関しては穴が多いので、これを機にまたゲルマン諸語も勉強してみたいと思います。

クルアーンの「十の戒め」その後


前回のエントリーに関してですが、17章よりも6章151-153節ではないのだろうか、と某教授が教示されているのを知りました。
私自身も他にないかと探してたのですが、確かにここの方が「列挙」という表現には合いそうです。

言え、「来るがよい。おまえたちの主がおまえたちに禁じ給うたものを私が読み聞かせよう。おまえたちは彼になにものをも並び置いてはならない。そして、両親には善行を。また、困窮からおまえたちの子供を殺してはならない。われらがおまえたちと彼らを養う。また、現れたものにしろ隠れたものにしろ不道徳に近づいてはならない。また、アッラーが禁じ給うた命を正当な理由なしに殺してはならない。これが彼がおまえたちに命じ給うたものである。きっとおまえたちは考えるであろうと」。(Q6:151、日本語訳は中田香織訳、中田考監訳『タフスィール・アル=ジャラーライン』第一巻、日本サウディアラビア協会、2002年より。363−364項。)
孤児の財産には、彼が成人に達するまで、より良いことをもってのほか、近づいてはならない。升目と秤は公正に量りきれ。我らは誰にもその能力以外のものを課すことはない。また、おまえたちが言う時にはそれが近親の者であっても公正にせよ。また、アッラーとの約束は果たせ。これが彼が命じ給うたことである。きっとおまえたちは教訓を得るであろうと。(152)
これがわれの真っすぐな道である。それゆえ、それに従え。諸々の道に従ってはならない。それらはおまえたちを彼の道から離れさせる。これが彼がおまえたちに命じ給うたことである。きっとおまえたちは畏れ身を守るであろう。(153)

確かにこの箇所の「要約」ですと、件の問題のような「十の『戒め』」として抽出できるかも知れません。というわけで、一つ前のエントリーで「改竄」と言いましたが、この箇所を元にしているのであれば「改竄」とまでは言えません。訂正致します。
勿論これは「クルアーンのこの箇所の要約としては的確」、という意味以上のものではなくて、他ならぬこの三節を抜き出して、特別に「十の戒め」と呼ぶのは極めて恣意的であり、少なくともイスラームの伝統に則ったものではないと思います。

これも別の研究者の方の指摘なのですが、有名なبني الإسلامで始まるハディースには六信五行の「خمس五」という数字がはっきり出ているのですが、このように数が示され、そのことにコンセンサスがあるのはイスラームでは稀だそうです。個人的な印象といて、イスラームの学者の各々の著作(セファラディーも同じようなメンタリティだと聞きますが、まだなんとも言えません)は極めて整然と整理され、「~は大きく二つに大別される。」「~には三種のものがある。」という風に書いている文章が多いような気がしますが、言われてみれば確かにそうかなあ、と思わされます。

なお、「十戒」ではないですが、シーア派のハディースでبني الإسلامに似たものがあるそうなのですが(内容ちょっと違う)、この場合礼拝、断食、巡礼、浄財、ولايةイマームの権利の承認、の「五行」とはならず、これにプラス5(とولايةの変更)の項目を立てて、謂わば計「十行」、即ち「礼拝断食巡礼浄財、ジハード、5分の1税、善の命令、悪の禁止、تولى آهل البيت「家の人びと」への忠誠、تبرآ(前のものに敵対する人びととの)絶縁、とするのが通説とのこと(12イマーム派以外も?)。私はシーア派はあんまり良く分からないのですが面白いですね。なおこの場合も件の問題文は「クルアーンには…」とあり、ここではハディースの話をしているのでこれが「十の戒め」とはなりません。念のため。

さて相変わらずこれの出処が気になっているのですが、嫌味でもなんでもなく、日本語でも良いのでもし本かなんかで見つけたのであれば、その出典を知りたいのです。あんまり類書がないので。というのは、これ、もろ「イスラーイーリーヤート」だからです。古典で出典があればいいのですが、現代の学者が書いた本にはまだ今のところ見つけられていません。

2012年1月15日日曜日

昨日のセンター試験・倫理に抗議


昨日行われた、大学入試センター試験「倫理」の第2問設問6に、イスラームとユダヤ教の比較という問題が出たことを知りました。
問題自体はまだ http://www.asahi.com/edu/center-exam/shiken/rinri/rinri009.html 等で見る事ができますが、そのうち消えるかも知れないため、問題文を掲載しておきます。


問6 下線部fに関して、クルアーン(コーラン)には、神がモーセに下したとされる十戒同様、十の戒律が列挙されている箇所がある。次に示す両者の要約を読み, イスラーム教とユダヤ教を比較した記述として最も適当なものを、下の①~④のうちから一つ選べ。

【クルアーンの十の戒律】
神に並ぶものを配してはならない。
両親によくしなさい。
貧乏を恐れて子を殺してはならない。
醜悪なことに近づいてはならない。
理由なく命を奪ってはならない。
孤児の財産に近づいてはならない。
十分に計量し正しく量れ。
発言する際には、公正であれ。
神との約束を果たせ。
神が示した正しい道に従え。

【モーセの十戒】
私以外のどんなものも神とするな。
像を造って、ひれ伏してはならない。
神の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖とせよ。
父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家をむさぼってはならない。

① 両宗教ともに神を唯一なるものと考え、唯一神以外の神を崇拝することを禁止しているが、ユダヤ教では偶像崇拝を許容している。
② イスラーム教の神は超越者ではないので、超越神を信奉するユダヤ教のように、神の名をむやみに唱えることを禁止する戒律はない。
③ 人間の健康と福祉は両宗教において何よりも重視されているので、ともに過労を防ぐために一切の労働を停止し休息をとる日を定めている。
④ 両宗教が定める倫理規範においては、力点の置き方が多少違うものの、ともに親孝行と並んで社会的な振る舞い方が規定されている。




眠い目をこすりながらパソコンを開け、このような問題が出たという事実を知り、一気に目が覚めてしまいました。

クルアーンに「十戒(十の戒律、「十戒同様、十の戒律が列挙されている箇所」)」など、ありません。
少なくともそのような言い方はしません。
そして(参照していると仮定して)原文の要約にもなってません。

内容からして、おそらくクルアーン17章22節~39節に取材したと思われる(別の箇所かも知れないし切り貼りかも知れませんが)のですが、これを「十戒」などと呼ぶ伝統は聞いたことがありません。近代以降のユダヤ教の猿真似をしたい、アメリカ=イスラエルの勝ち組に対抗したい、という欲望が働いて提唱した資料や人物、あるいはこのようなことを述べる西欧文明産の比較宗教学者(さすがにいないと思いますが)がどこかにいるのかも知れませんが、少なくとも私の同僚・先輩の専門家に相談してもそんな「十戒」など知らぬ存ぜぬ(当たり前ですが)。日本人の専門家が書いた「まともな」イスラームに関する本でもこのような記述が出てくるようなことはあり得ません。少なくとも私は知りません。そして古典ではクルアーンのこの箇所を「十戒」などではなくむしろ「二十五戒」と述べる程です(例えばジャラーラインのタフスィール17章22節参照)。

誰が問題文を作ってるのか知りませんが、仮にも大学入試センター試験という、受験生にとっての登竜門のみならず、明日以降も未来の大学受験生が「過去問」として勉強し、また有志の方々が今日明日と「力試し」で解くことになる問題です。もちろん人文科学における実証主義的真理(ここでは、問題における「問い」「答え」の内容は「真実」であるということ)なんていくらでもケチのつけようがありますが、この問題の妥当性は論外です。プラクティカルな側面からすれば、例え問題文の内容が偽でも「読解」として解けるので受験生諸氏には問題がありませんが、この「問題文は真である」=「イスラームにも十戒(十の戒律)が存在するという衝撃の事実!!」ということを鵜呑みにする方々が日本に大勢おられるはずです。

「(ラビ)ユダヤ教」と「イスラーム」を、伝統を共有するアブラハム的一神教として捉え(特にイスラーム)、なおかつキリスト教と二者の対比を図るためにハラハー・シャリーア(フィクフ)(らしきもの)を持ち出すのは構わないと思いますが、流石にお粗末というか、そもそも間違ってます。

そして間違ってるのも最悪なのですが、さらに輪をかけて、その「十の戒律」なるリストの文言じたいも、原文におそらく手を入れて(原形がよくわからない)「改竄」した酷いものです。つくづく酷いですね。



素朴な疑問なのですが、出題者はどこでこの「アイディア」を入手した、あるいは思いついたのでしょうか。
私がルートとして思いつくのは、

① ろくでもない「入門書」「概論」、あるいはよくわからないムスリムから直接聞いた内容から引っ張ってきた
② 問題文作成の便宜のため自ら「十戒」をクルアーンから抽出した
③ 「イスラーム」という、同じ名前でよく似た宗教体系を持つ、別の宗教がこの世のどこかに存在し作成者はそのことに明るかった
④ 啓示を受けた
⑤ 神秘主義的コミュニケーションにより預言者ムハンマド(SAS)に教えてもらった

くらいです。

①が一番ありそうに思えますが、仮にも天下の大学入試センター試験の出題者はこんなおっちょこちょいな性格をしていて務まるものなのでしょうか。そもそもその地位まで昇りつめるのが難しいように私には思えますが。
②がその次にありそうに思えますが、そんな面倒なことをするくらいなら「入門書」かなんかを呼んで別の問題を作ったほうが費用対効果が高そうです。あるいは「十戒は必ずイスラームに存在するのだ」という確固とした信念の持ち主で、「発見」したのかも知れません。
③上に関連するのですが、人口に膾炙した「イスラーム」というアラビア半島生まれの宗教体系とは別の宗教体系で、「イスラーム」という宗教が存在する可能性は否定し切れません。出題者がその信者である、としたら平仄が合いますが、上のように「発見」したのであれば信者数はまだ一人だけかも知れません。あと、仮にこれが真だとすると、ややこしいので別の名前を使ってくれると非常に助かります。
④啓示を受けたと主張するのであればしょうがないですが、イスラームの伝統ではムハンマド(SAS)で預言の封印がなされますので、むしろシーク教やバーブ教、バハーイー教等とよく似た道程で生まれた、私たちが知る「イスラーム」とは別の宗教になるでしょう。
⑤啓示ではなく、スーフィーの伝統に置いて超自然的コミュニケーションでもって真理(の一部?)を獲得したというのであれば、まずはイスラーム内部でコンセンサスを得た段階でセンター試験に問題として出題するべきでしょう。余計なお世話だとは思いますが、あまりこういうことは自分から広めない方が安穏な人生を送れるかも知れません。真理は茨の道と言われたら頑張ってくださいとしか言えませんが…。


いや、本当にどういう経緯でこうなったのか気になっています。
日本はイスラーム圏との歴史的交渉が必ずしも長くないのにも関わらず、戦前より極めて優秀なイスラーム学者(特に歴史)を輩出し、関連する啓蒙書・専門書のレベルも高いのに、なぜこのような問題が生まれたのか、ということで。
たとえばこれが各地カライ派とかドゥルーズ派とかイエメンザイド派とか山岳ユダヤ人の慣習とかのコアな問題なら、まあまだわからんでもないのですが。

2012年1月13日金曜日

フーリーの家系とその周辺


Culi, Rabbi Yaakov(trans. by Kaplan, Rabbi Aryeh), 1980(1730). The Torah Anthology: Yalkut Meam Lo'ez Genesis 1, New York / Jerusalem: Moznaim Publishing, pp. xv-xxix.

カプランの英訳Me'am Lo'ezの翻訳者序に記されているフーリーの生涯とその周辺をまとめておきます(pp. xvii-xxii)。
なお、メアム・ロエズ以外の作品は全てヘブライ語作品です。

まず父系から。フーリーの父はRabbi Meir Huli(1638-1727)。まずそもそもこのフーリー家ですが、そもそもはフランスのCholetという町に淵源するらしく、アシュケナズィーのラビに遡ることが史料で示せるとのこと(p. xvii)。その後このCholetからクレタに移住し、フーリー姓となっていくようです。クレタには古くからユダヤ人のコミュニティがありましたが、特にヴェネツィアがビザンツ帝国から1204年に購入して以来、ユダヤ人の数が激増したとのことです。ヴェネツィア人達はクレタの都市を要塞化し、ユダヤ人たちをよく治めていたため、1492年のイベリア半島追放後もユダヤ人たちを吸収し、当時のRomaniot Jews達はセファラディー化したようです。
さてその後オスマン帝国がクレタの奪還を図ります。1645年には島に上陸し、近代史では最も長い期間(ほんと?)、24年に亘って包囲し続けます。その間ヨーロッパから義勇兵がヴェネツィア側に立ち馳せ参じるのですが、最終的にクレタ島全体がオスマン帝国に降服します。これが1669年9月27日のことでした。フーリー家はかなり裕福な家系だったのですが、クレタ島がオスマンの手に落ちたことにより状況の悪化を実感し、1688年、彼が50歳の時点でクレタを離れエルサレムに落ち着きます。

その当時エルサレムにいた学者で有名なのはRabbi Chezkia di Silva(1659-1698, Pri Hadash), 1668年初代のリション・レツィヨンに任命されたRabbi Moshe Galanti(1620-1689), そしてフーリーの祖父となるRabbi Moshe Ibn Chaviv(1654-1696)です。ラビ・モシェ・イブン・ハヴィーヴと会って間もなく、メイール・フーリーは彼の娘と結婚し、1689年ヤアコヴ・フーリーが生まれます(なお彼の生年に関しては二次資料によってブレがありますが、Kaplanの注によると1689年説が説得力を持ちます)。

さて母方の家系ですが、元々はサロニカの出らしく、モシェ・イブン・ハヴィーヴは1669年にエルサレムに来たとのこと。そして上記モシェ・ガランティの妹と結婚し、一時(1677年に確認できるとのこと)はコンスタンティノープルにいたが、その後慈善家のMoshe ibn Yaush of Constantinopleによって、エルサレムにイェシヴァーを作るために戻されたとのこと。このモシェ・イブン・ハヴィーヴはEzrath Nashim(一人だが正式な離縁状を持たない妻を論じた作品), Get Pashut(離婚についてのハラハーを論じた作品), Yom Teruah(ショファルについての作品), Tosefoth Yom Kippurim(大贖罪日のハラハーについて), Kappoth Temarim(スコットの四種の祭具について)という作品をものし、後半三つはShemoth be-Aretzとしてまとめられているようです。
このイブン・ハヴィーヴ家ですが、この家系も学者の家系で有名な学者を輩出しています。一人がRabbi Yosef Chabiba(15世紀?)、Nimukey Yosefという、Rabbi Yitzhak Alfasi(1013-1103)のSefer ha-Halachotのコメンタリーを書いた人です。もう一人はRabbi Yaakov ibn Chaviv(1459-1516)、かのEyn Yaakovを著した人です。Kaplanなんかは「カプランは彼の先祖が当時の偉大なタルムード学者の一人であり、大衆向けのEin Yaakovを著したという事実に感銘を受けた」(p. xix)と書いていますが、出典が書かれていないので何とも言えませんが、是非見つけたいです。

ようやくラビ・ヤアコヴ・フーリー本人に辿り着きました。前述したとおり彼は1689年エルサレム(ツファットというMolhoの見解もある)に生まれ、祖父モシェ・イブン・ハヴィーヴの膝の上でスクスクと育ち、6歳にして祖父のタルムード解釈に質問するまでになったそうです。その後彼が7歳の時に祖父が亡くなりますが、どうも祖父及びおそらく祖父の出自に関してはかなり意識していたみたいで、メアム・ロエズのプロジェクトを開始する前のフーリーは祖父の作品・遺稿の整理を行い、アシュケナズィーの世界ではむしろそちらの方で有名です。
祖父が亡くなった翌年、今度は実母が亡くなってしまい、その後フーリー親子はヘブロン、次にツファットに行きます。ツファットで彼は祖父の遺稿の整理・編集を始めたようです。1713年に聖地への旅をしていた、印刷業も営むコンスタンティノープルのラビ、Chaim Alfandriに出会い、二人で一年(エジプト経由)かけてコンスタンティノープルに辿り着きます。それが1714年のことでしたが、当地ではまだシャブタイ・ツヴィの後遺症が響いていたようで、モラルの低下やユダヤ教離れが著しく進んでいる現状を付きつけられたようです。当地で教師の職を得ながら祖父の原稿整理・編集を続け、Chaim Alfandri及びその親類のYitzchak Alfandriの援助を受け、1719年にOtorokoiにてGet Pashutの印刷に成功します。さて当時のコンスタンティノープルのリーダーはRabbi Yehudah Rosenesだったのですが、フーリーの若き才能に目をつけ、彼のもとで働かせ、当時弱冠30歳にも関わらずBeth Din(ラビ法廷)のメンバーに任命します。その後数年してコンスタンティノープルの師、Rabbi Yehudah Rosenesが亡くなるという悲しみとともに、祖父のShemoth be-Aretzを出版します。
祖父の遺志を果たした今、フーリーが次にやるべき仕事は、もう一人の師、Rabbi Yehudah Rosenesの著作を整理・編集し、世に出すことでした。彼が亡くなって一年後には既にParashath Derakhim、族長時代の自責からハラハーを引き出した説教集を出版します。なお、この本の序文にはフーリー自身が作品について、また師を喪った哀しみについて述べられています。
しかし、フーリーの名をMe'am Lo'ez以外でも輝かしめているのは、Mishneh la-Melekhという、マイモニデスのミシュネー・トーラーの註釈書です。ヘブライ語版のYalkut Me'am Lo'ezで訳者のShmuel Yerushalmiがフーリーを「Mishneh la-Melekhの編集者」として紹介しますが、それほどまでにこの作品はユダヤ人学究者の間で受け入れられたようです。ミシュネー・トーラーは(私も一部読んだことがありますが)、読者にとっていまいち良くわからない箇所が散見され、またその典拠が示されていないという作品で註釈が必要なのですが、このMishneh la-Melekhはフーリーとその師の共同作品のようになっているようで、今でもミシュネー・トーラーに大体これがセットで載っているとのことです。本作品の編集にフーリーは3年をかけ、1731年に出版。その8年後にはミシュネー・トーラーとセットで印刷されたようです。

それと同時に1730年、同僚ラビの無理解にも関わらず自分の信念に従い、大衆向けにMe'am Lo'ezの創世記を完成・出版。本人自身は出エジプトの途中まで執筆した後、1732年8月9日(アヴ月19日)に若くして世を去るのですが、本書はシャブタイ・ツヴィ騒動で疲弊したセファラディー世界の「精神的ルネッサンス」とも言うべき大復興を巻き起こし、それだけでなく、本書によってその後200年以上続く「ユダヤ・スペイン語文学」の幕が開けることになります。メアム・ロエズというプロジェクト自体は今までのエントリーでも紹介したとおり、彼が序文に書いたように、彼の遺志をついで有徳の志が後に続き、完成させていきます。

Mr. Barocas and the Me'am Lo'ez

Kaplan, Rabbi Aryeh, 1980. 'Mr. Barocas and the Me'am Lo'ez' in Studies in Sephardic Culture: The David N. Barocas Memorial Volume, New York: Sepher Harmon Press, pp. 15-19.


メアム・ロエズMe'am Lo'ez全編の英訳という偉業を成し遂げた、Aryeh Kaplanによる、David N. Barocasの回想文です。 Barocas氏についてはhttp://www.sephardicstudies.org/David-Barocas.htmlをご参照下さい。

この論文で個人的に一番重要だと思うのは、メアム・ロエズを著した、ラビ・ヤアコヴ・フーリーの呼び名です。Encyclopedia JudaicaやJewish Encyclopediaのエントリーでもそうですが、スペリングにかなりの揺れがあります。そもそもユダヤ・スペイン語、ラディーノの転写法が確定していないという事情もあるのですが、たとえ転写法が確定していても、この人の名は表記と呼称伝統にズレを見せるのです。

そもそもヘブライ文字ではכוליと記すので、音節初めのカフは弱ダゲシュがつき破裂音の/k/になるのですが、セファラディーの伝統ではダゲシュがつかない摩擦音で発音し続けているとのことです(p. 16)。そのことに関して本論文ではBarocasから著者に宛てられた手紙を引用します。

1977年6月10日
私は誰がフーリー(H.ulí)という名前をクーリー(Culi)に変えたのか知りません。彼の名を「クーリー(Culi)」と呼んでいるのを聞いた覚えがありません。[証拠として]Palestine Kosher Oriental Knishesの「Albert Houli」さんの名刺を添付します。(p. 17)
1977年1月22日
フーリーの表記について、Jewish Encyclopedia、Encyclopedia Judaicaの双方でどうやって綴られているかを知りました。二つとも私の蔵書にあります。私は、セファラディーでない者が彼らの文化ではないものを勝手に変えることを当然と思うことに我慢がなりません。スペイン語を知っているものであれば、この発音が嫌悪感をもよおすものであることが分かるはずです。(p. 17)

また、barocasはMagrisoのレビ記メアム・ロエズ付Avotの訳をしているのですが、その中でマイモニデスの翻訳論に触れ、その上でMagrisoの文章に含まれる言語状況を説明しています。

1978年7月30日
マイモニデス曰く。「一つ確実なことを述べさせてもらいたい。翻訳をしたいと望み、全ての語を逐語的に訳し、同時に原文の構文の順序に忠実足らんと望む全ての者は大変な困難に直面するであろう。これは正しいやり方ではない。翻訳者はまず主題のことを完全に理解し、その上でそのテーマに関して、他の言語で明瞭に述べるべきである。しかしながらこのことは、彼の目標言語において意味をなし得るために、[起点言語の]構文の順序を変え、[原文の]一つの語に対し複数の語をあてる、あるいはその逆をすることなしには果たし得ない。」
カイロの賢者[マイモニデス]は完全に正しい。しかしながら、彼は[同時に]5種類の言語を著作に用いたMagrisoを見る機会はなかった。[即ち]スペイン語、ラディーノ、ヘブライ語、トルコ語、そしてユダヤ・スペイン語方言である。(p. 16)
どうもMagrisoの翻訳はかなり苦労するようで、本論文著者のKaplanもその苦労を述べています。
まず18世紀ユダヤスペイン語の辞書が存在しないこと。その状況の中で最大限に出来ることと言えば古風な言い回し・単語について語源学的に考察するしかない、と。メアム・ロエズの翻訳が難しいのは古風なトルコ語単語を多用し、「半ダース程の地中海言語」(p. 18)を使用している点だと述べます。

そのような中で救いなのは、西方セファラディーコミュニティ、Livornoの版だと述べます。彼らは通常あんまりトルコ語由来の単語が分からないので、出版社が再版する際にそれらを注意深くカスティーリャ語や新語に置き換えている(ちゃんと意味は把握していた)とのこと。それ故にこのLivornoの版は18世紀コンスタンティノープル版の諸メアム・ロエズを「解読(decipher)」する際の「ロゼッタ・ストーン」となりうるとのことです(p. 19)。

The Tze'enah u-Re'enh: Torah for the Folk


Schultz, Joseph P., 1987. 'The Tze'enah u-Re'enh: Torah for the Folk', Judaism 36(1), pp.84-96.

前々回のエントリーで紹介したツェネ・レネの別の論文です。

まず著者はツェネ・レネ(イディッシュ読み)が出来上がる前史として、Teitch Humashの流れと、Die Lange Megillahの流れを紹介します。

Teitch Humashはトーラーのイディッシュ訳ですが、単なる逐語訳ではなく、短めのラシの註釈等も組み入れたものです。例えば創世記37章24節、ヨセフが兄貴たちにいじめられて穴に放り込まれる場面ですね。原文は以下のようなものです。
ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ている着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。 (創世記37章23-24節、新共同訳)
これにラシの註釈、
その穴は空で水はなかった。しかしそこには蛇と蠍がいた。
を組み入れる(「しかしそこには蛇と蠍がいた」を付け加える)わけですね。このような「単なる翻訳」ではなく、「敷衍」が加わっていく例として、私なんかはたとえばアラム語訳聖書の偽ヨナタン等が思い浮かびます。

「翻訳」でも「敷衍」でもなく、編集というレベルも超え、創作の域に入るような作品が、イディッシュでいうと例えばDie Lange Megillah(Leib ben Moshe Melir著、1589年クラクフ刊)という作品。この作品は聖書のエステル記と、それに関連する(と作者が判断する)ミドラシュ、アガダー、民話等を織り交ぜ、新たな作品として作り直したものだそうで、大層人気があったとのこと(p. 86-87)。これと同じ傾向の作品としては他にDer Shmuel Buch, Der Melakhim Buchが挙げられます。

ツェネ・レネはこの双方の流れを組んでいると述べます。つまりTeitch Humashの「伝統的・教化的」側面とDie Lange Megillahの「語りの流麗さ・娯楽的要素」の二点。Teitch Humashがヘイデル(ユダヤ教の寺子屋のようなもの)で生まれ、編纂された、つまり生来的に教育目的であったのに対し、後者Die Lange Megillahが大衆に向けた講釈・語り、つまり教化的要素とともに、ある意味でのを「娯楽」を目的としたものであった、この二点を矛盾なく見事に紡ぎ上げたのがツェネ・レネだと述べます(p. 87)。

さて、前々回のエントリーとも関連しますが、本論文で紹介されている、ジェンダーに関わる聖書註解を見ていきましょう。
前々回とは別の箇所ですが、創世記2章21節、
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。(新共同訳)
です。ツェネ・レネはまずトレドのIsaac ben Joseph CaroのToldot Yitzhakの註釈を引用します。
このことから我々は倫理的教訓を引き出すことが出来る。男は、彼の妻に対して彼の魂の欲するところとは異なるものを見出したとしても、妻に対して怒ってはいけない。むしろ寝ている時の如く、それを見ないように努めるべきである。(p. 88. 原典未見)
続いて創世記ラバーに基づいた註釈を述べます。
もし男が善き人であるならば、主は彼に対し、彼の最愛の者となり彼を支える妻を授けるであろう。しかしながらもしも男が義なる人でないならば、主は彼に対し、彼の魂にとって脅威となるような妻、現世も来たるべき世も失わせるような妻、つまり[単なる]死よりも苦い妻を遣わされる。同様に、夫に来たるべき世[の褒賞]を齎してくれる女性も存在する。[さて、]先に述べたような、義人の夫と妻も事例である。彼らは子宝に恵まれず、夫は妻を離縁した。離縁された[義なる]妻は極めて邪悪な男と再婚し、その男を偉大な義人へと変えた。妻を離縁した[義なる]男は極めて邪悪な女と再婚した。全て彼女のうちの邪悪なものは彼を罪人へと変えた。(pp. 88-89. 原典未見)
興味深いのは創世記ラバーと微妙に内容が違っていることです。
さて、敬虔な男と、同じく敬虔な女が結婚したが、子宝に恵まれなかった。彼らは言った。「私たちでは[子どもができないので]主の力になることが出来ません」彼らは直ちに離婚した。男は邪悪な女性と再婚し、その女性はその[敬虔な]男を悪人に変えてしまった。女は邪悪な男性と結婚し、女はその[邪悪な]男性を義人に変えた。このように女性は全てを決定するのである(創世記ラバー17章12節)
ツェネ・レネと創世記ラバー本文では、女性の感化力が男性よりも勝るという前提は変わらないのですが、創世記ラバーでは男女が合意し、対等な立場として決定を下しているのに対し、ツェネ・レネでは男性が一方的に断を下しています。加えて創世記ラバー本文に存在していた「このように女性は全てを決定するのである」という一文がスッポリ抜け落ちております。

前々回の論文ではツェネ・レネのフェミニスティックな部分が強調されていましたが、創世記ラバー本文との並行記事を比較すると、創世記ラバーの方がよっぽどフェミニスティックなように見えます。この部分だけ読むと女性の価値に疑問を抱き、貶めるというようなことはないのですが、自己決定し、男性と対等な立場・役割で振舞う女性は許容できないように思えますが、少しテーマが大きくなるので今後の課題とします。ちなみにセファラディー文学でも大体同じような感じです。

なおツェネ・レネの「元ネタ」ですが、以下のようなもののようです。トセフタ、ミドラシュハラハー&アガダー、各種聖書註解、Bahya Ben Asher, Isaac ben Joseph Caro, Sefer Hasidim, Sefer ha-Mevakesh(Shem Tov ibn Falkera)、イブン・ガビーロール、マイモニデス、サアディヤ、キムヒ、Menorat ha-Maor(Isaac Aboab), ゾハル、Palm Tree of Deborah(Moses Cordovero)等。カバラーはあるけどあんまり多用してないようです(pp. 89-90)。


前々回にツェネ・レネの文献学的・言語学的価値に少し触れましたが、もう少し詳しく書いてみます。この本は前にも述べたように実に210版以上もの版が刷られましたが、まず「西欧版」と「東欧版」があります。「西欧版」はその名の通り西欧のユダヤ人出版社から出た版。当時はまだまだ西欧にもアシュケナズィーがおり、イディッシュ語を話していました。ただ西欧と東欧で方言が結構違っていたらしく、出版社は購買層を拡大するために、西欧方言でも東方方言でもない、それまでの書き言葉でも使われていた、「共通語」で出版します。当時は話し言葉と書き言葉が結構乖離していたようなのですが、今の私にはあんまりよくわかりません。その後西欧が近代に突入し、啓蒙の時代に入り、西欧ユダヤ人の同化が進むにつれ、西欧におけるイディッシュ文学の潜在的購買層がどんどん縮小していきます。そしてイディッシュ文学・文化の中心が東欧へとシフトし、それに伴い出版社は、「共通語」版ツェネ・レネを東欧向け「口語版」として手直しして出版・販売するようになります(実際は1836年ー1900年の期間はヴィルナのロム家のみが出版)(p. 90)。

以上がおおまかな出版史なのですが、19世紀のツェネ・レネの各種エディションは、ハスカラとハスィディズムの思想闘争の「戦場」の様相を呈することになったと述べます。マスキリーム(啓蒙主義者)はツェネ・レネの普及度と人気を勘案し、これに手を加えることで民衆教化の有効な手段とするようになります。実例として挙げられているのが、Haskala tendenzという作品。モーゼス・メンデルスゾーンの弟子にして、1808年から1817年までウィーンにて彼の息子たちの教師あったでHerz Homburgの手によるものです。彼の「ツェネ・レネ」の特徴として以下が挙げられます。

①プシャット重視、聖書本来の字義から離れた解釈は退ける。②モーゼス・メンデルスゾーンの聖書註釈(beur)、あるいはそれに基づく近代的な註釈に則る。③ミドラシュの採用には慎重。④異教徒に対する否定的態度、イスラエル民族(ユダヤ人)と多民族との違い(優劣)を強調する部分の削除。⑤諸現象に対する、物理的・理性的思考に基づいた説明。⑥歴史的説明。⑦彼らの時代から見た時に「時代遅れ」だと感じる観点に対して、理性的思考・理性的観点の強調(p. 91)。


では具体例としてはどのようなものでしょうか。本論文ではHomburgの「削除」傾向のツェネ・レネではなく、そっと註釈を重ねる例が紹介されています。創世記2章3節。

第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2章2-3節、新共同訳)

「伝統的」ツェネ・レネは以下のように続けます。
主は、人がもう一つの魂(neshamah yeterah)、すなわち人が他の[聖でない]日に持つことができない魂を得るため、安息日を祝福されたのである。(p. 91. 原典未見)
この註釈に続けて、1842年ヴィルナ版(編者がマスキールとのこと)のツェネ・レネは、魂(neshamah)に以下のような注をつけます。
第六感(inspiration)と呼ばれるところのものである。(p. 91. 原典未見)

このような「マスキール版」ツェネ・レネに対し、ハスィディズム側はすぐさま反転攻勢に出ます。Homburgが「削除」したものを全て復活させ、上記のようなマスキールが追加した「異物」を取り除き、伝統的ツェネ・レネを1845年Josevovで、1848年Zhitoarで出版されます。まさに「戦場」ですね。現代だと伝統的ユダヤ教を勉強しようと思い適当に手にとって読んでみたらいつの間にか啓蒙主義者になってしまっていた、というようなことも起こりうるというのが面白いです(まあないでしょうが)。

私がこの前買ったのは1860年のヴィルナ版なのですが、この版が果たしてどうなってるのか気になりますね。ブルックリンから大阪に送ってもらったので、まだ現物は見ていないのです。

2012年1月11日水曜日

The Me'am Lo'ez and its Various Editions

Roditi, Edouard, 1993. 'The Me'am Lo'ez and its Various Editions', European Judaism 26(1), pp. 17-23.

(及びRoditi, Edouard, 1992. 'The New Spanish Edition of the Me'am Lo'ez', Midstream 38(5), pp. 27-31. も参照。以下引用頁は93年論文より)

メアム・ロエズMe'am Lo'ezは調べ始めたところですので、まだ不確かなことしか言えませんが、研究の余地がかなりあるなあと感じています。この作品に対するアプローチはたくさん考えられますが、その中でもこの論文は文献学的研究の必要性・可能性を論じております(p. 22)。
まずそもそもの話ですが、英語・ヘブライ語全訳は存在する(偉業だと思います)が、ユダヤ・スペイン語の校訂版が全て存在しているわけではない。そのような中でスペインで60年代・70年代に校訂版が創世記・エステルと出たのを讃え、これを機に研究が進めばいいなあ、というのが著者の思いのようです(p. 17)。しかし2012年現在の状況として、内容を取るだけなら英語・ヘブライ語が別に入手困難というわけではないので構わないのですが、校訂版がこれだけしか出揃っていない現在、原典を気軽に参照できないのは正直辛いものがあります。さらに言うとどうもこのスペイン発校訂本はどうも評判が芳しくなく、この校訂版が出た後もあまり研究者の間で使われていない(結局原典を参照して引用している)という現実があります。「メアム・ロエズを研究してやろうなんて(奇特な)奴はアーカイブにこもるか、自分で手に入れるような人間なのだ!」というのは分からないでもないのですが、それではただでさえ少ない研究者が一向に増えず、本論文の著者Roditiでなくても嘆きたくなるのがわかります。

さてこの論文は著者の遺稿(1910-1992、上記掲載の1992年発表の論文草稿が93年に発表された?内容はほぼ同じで93年の方が敷衍的)になってしまったようですが、重要な指摘をしています。著者自身はフランス生まれ、詩人・小説家・翻訳者・インタビューアーとして有名らしいですが、出自はセファラディー系。この論文の中で述べてますが、Roditiという姓はギリシャのロードス島に由来し、中世末に聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)によってロードス島を追放されたユダヤ人の子孫である証左とのこと(p. 20)。勿論当時はまだ14世紀ですから、イベリア半島からのユダヤ人追放もオスマン帝国の受け入れもない(というよりビザンツ領)ですので、この時点では彼らは(ユダヤ・)ギリシャ語を話すRomaniot Jewsということになります。彼らはビザンツ領内のSmyrna(イズミル)に主として定住(当時ヴェネツィアの植民地だったクレタ島やサロニカにも行ったという史料が残っているようです)し、1492年以降はスペイン・ポルトガル系ユダヤ人、即ちセファラディーのコミュニティに同化していきます(pp. 20-21)。

ちなみにこれも日本ではほとんど知られていないと思いますが、このRomaniot Jews、近年までギリシャのIoaninaにコミュニティがあったようで、ユダヤ・ギリシャ語を話していたようです。勿論このブログの過去のエントリーで何度か紹介してるように、ギリシャのユダヤ人コミュニティは他の多くのヨーロッパ諸国と同様徹底的に破壊されてしまったので、今はその栄光を偲ぶことしかできないようですが。

閑話休題。さてイズミルに居を構えたRoditi一家ですが、イズミルのユダヤ人コミュニティの中ではかなりの名家となったようで、特に出版・校訂の分野で頭角を現します。
メアム・ロエズの文献学的研究に関して重要な指摘は、1864~1870年出版のメアム・ロエズ、即ち1864年創世記の6版(*1)、1864年・1865年出エジプト記の5版(*2)、1866年レビ記の5版(*3)、1867年民数記6版(*4)、1868年申命記3(or4)版(*5)、1870年ヨシュア記の初版はPontremoli(1864年にエステルのメアム・ロエズを出版しています)の助けも得て、Benjamin Roditi(著者は傍系の子孫とのこと)とPontremoliの二者が大幅に「手を入れている」とのことです(p.20)。「手を入れる」とはどういうことかというと、「誤植を正し、当時・当地の話し言葉により近づけた」(p. 20)とのこと。その当時・当地の話し言葉は「italianisms, gallicianisms, borrowings from Turkish」(同)ということで、タンズィマートを経験し、言語変化が進んでいる状態のようです。
これは近現代を問わず、再版をする際の出版者(社)に共通の姿勢だと思いますが、やはり改めて指摘されると、エディションの違いの重要性を感じます。ちょうどこの前のエントリーでご紹介した通り、個人的にこの時期のイズミル出版のメアム・ロエズ創世記を買い、加えてその次の版、つまり1897年サロニカの創世記も買ったので、「ふーん」で終わる問題ではありません。仮に訳等を作ろうと思った時、やはり図書館等で他の版も確認しなきゃいかんと思わされました。創世記はJewish Booksや各種抜粋エディションである程度見れるのでまだましですが。
この辺の話は、一つ前のエントリー、Ze'enah u-Re'enahにも共通する話ですね。先に読んだのはこのメアム・ロエズの論文でしたけど。

なお、この時期にここまでイズミルが頑張ったのは、ちょうど1830年代以降の沿岸部・ギリシャ・コーカサス情勢の悪化等の影響が少なかったためと、ちょうどこの時期にマンチェスターからのコットンの輸入、そしてこちらのほうが重要のようですが、スエズ運河が開通するまで絨毯・イチジク・ナッツ他のオスマン領内の産品をバグダッドやイランに輸出するための基地としての役割を果たしたからとのこと(p. 20)。この時期のイズミルのメアム・ロエズ「再版攻勢」によって、これまではモーセ五書のみであったメアム・ロエズ事業がモーセ五書以外にも拡大されることになります(p. 21)。

著者はメアム・ロエズや他の著作の研究が遅れていることに対して警鐘を鳴らしていますが、その理由は現存する書物自体がそこまで多くなく、気づいた頃には保存状態が悪すぎて研究できなくなってしまうのではないか、という点(p. 22)。フェズ(モロッコ)のシナゴーグの屋根裏「ゲニザー」でボロボロのメアム・ロエズ(ユダヤ・スペイン語)が発見されたことを引き合いに出して紹介しています(同)。

このRoditiの警告がどれだけ活かされたかについてはまだ判断を控えますが、膨大なメアム・ロエズの世界に分け入って少しでも発信できればと思います。

なお、メアム・ロエズはユダヤ・アラビア語訳もあるようですが(*6)、その点について仮に著者が個人的に知っていることがあったのであれば、そのことも書いて欲しかったです。あったのかどうかは分かりませんが。






(*1)初版1730年コンスタンティノープル、2版1748年同地、3版1794年サロニカ、4版1822年リヴォルノ、5版1823-25年Ortokoi(この版は不明な点が多いらしい)、6版1864年イズミル、7版1897年サロニカ

(*2)数え方が難しいが完全版のみを考慮すると5版。前半1733年コンスタンティノープル、後半1746年コンスタンティノープル、完全版2版1753年コンスタンティノープル、完全版3版1823年リヴォルノ、完全版4版1859-1865年サロニカ、完全版5版1864及び1865年イズミル、完全版6版1884-1886年エルサレム

(*3)初版1747年コンスタンティノープル、2版1753年コンスタンティノープル、3版1803年サロニカ、4版1822年リヴォルノ、5版1866年サロニカ - イズミル

(*4)初版・2版ともに1764年コンスタンティノープル初版、3版1803年サロニカ、4版1815年サロニカ、5版1823年リヴォルノ、6版1867年イズミル)

(*5)初版前半1773年コンスタンティノープル、後半1777年コンスタンティノープル、完全版2版?1822 or 1823年リヴォルノ、Ve Eth Chananまで1829年サロニカ、Ekevまで1868年イズミル、Ve Et Chananまで1883年サロニカ

(*6)1886年アルジェ(Bereshith and Noah)、1889年ジェルバ(Lekh Lekha to Toledoth)、1891年アルジェ(Va Yetze to Va Yechi)、1894年アルジェ(Shemoth to Bo)

なお上記校訂版のリストについては、投稿者がR. Aryeh KaplanのThe Torah Anthology Vol. 1(pp. 463-466.)と本論を参照し、Kaplanの不足分を補った。

Tze'enah u-Re'enah

Minkoff, Harvey, 1993. 'Was the First Feminist Bible in Yiddish?', Moment 16(3), pp. 28-33, 52.

あまり日本では紹介されてないと思いますが、צאינה וראינה(イディッシュ発音では「ツェネ・レネ」)という雅歌3章11節から題名を取った、「Women's Bible」とも呼ばれるイディッシュで書かれた作品があります。
(日本語による解説でパッと思いつくのは、以下のジャン・ボームガルテン(上田和男・岡本克人訳)『イディッシュ語』、白水社、1996年、55-56項)

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16世紀末頃から17世紀初頭辺りに生まれたこの作品は、ヤノフ(クラクフ近郊?)のヤコヴ・ベン・アシュケナーズィーの手によるものです。モーセ五書、ハフタロート、メギロートに対する註釈アンソロジー集とも言えるもので、タルムードやミドラシュ、あるいは倫理文学や民話を民衆の言葉、つまりイディッシュ語で書いたものです。ヨーロッパのアシュケナズィーの間で絶大な人気を博し、なんと16世紀から20世紀にかけて210版(!)以上も版を重ねたという驚異的な作品です。本書の目的について、現存最古の版である1622年バーゼル版の表紙には以下のように記されています。「男女ともに、分かり易い言葉で聖書を理解できるように」

この作品は内容自体もさることながら、文献学的にも非常に興味深い対象です。というのも、本書は当初、東西のアシュケナズィーが理解できる「共通イディッシュ語」とも言える文章で書かれていたらしいのですが、後に「東方ユダヤ人」向けに「新正書法版」とも言えるものに生まれ変わる(つまり言語変化が分かる)やら、「マスキール(啓蒙主義者)版」があるわ「ハスィード版」があるわ(後のエントリーでもまた触れます)、と、下世話な言い方ですが「ネタ」の宝庫です。この本がアシュケナズィー一般民衆の間で、いかに影響力があったかが窺い知れる事実ですね。

さて本論文はジェンダー研究の文脈からこの本を取り上げた物で、当時の「フェミニスト神学(聖書学)」を念頭に置いていると思われます(狙ってるわけではないのですが、最近ジェンダー研究が絡んでいる論文を読むことが多いです)。
アンソロジーは単なる「寄せ集め」ではなく、取捨選択と配列に編集者=作者の個性が強く出る、れっきとした一個の「作品」だと思いますが、ではこの本ではどのような女性観が見られるのでしょうか。


まずは失楽園。創世記3章12節、善悪の知識の木の実を食べてしまい、アダムが神に詰問される箇所です。
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(新共同訳)
註して曰く、

アダムは彼が犯した罪を認めも悔いもしなかった。むしろ『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女』を責めた。つまり、彼は彼が享受した幸福(favor)──妻を与えられたこと──を拒絶したのである。ここにおいて彼は、もし彼が一人でいたままであったら罪を犯さなかっただろうと述べているのである(p. 30、原文未見)
ここでは敢えてアダム・イヴともに同罪であるという解釈を採用しています。


次は創世記17章、18章特に18章12節、年老いたサラが子どもを授かるという預言を「サラはひそかに笑った」(18章12節)という箇所について。伝統的なユダヤ教の註解ではこの箇所を「サラの神の全能性に対する信仰心の欠如」として捉えることが多いのですが、さていかに。

註して曰く、
しかしアブラハムもまた笑ったのだ。曰く、「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って[、ひそかに言った。『百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラに子どもが産めるだろうか』](創世記17章17節)。サラは[神の]啓示(promise)を直接に聞いてないが、アブラハムは直接に[啓示を]聞いている。では何故に神はサラに怒られたのか(創世記18章13節)。実際のところ、神はサラの言動に対する怒りを持って[間接的に]アブラハムに対して怒られているのであり、神はアブラハムが[サラへの怒りでもって実際は自分が怒られていることに]気づくということを知っておられるのである。彼(アブラハム)に恥をかかせないため、神は彼を間接的に叱られたのだ。このことは不適切な行いのため義理の娘を叱りたいと思っている女性にも当てはまる。彼女に恥をかかせないため、彼女自身(義理の娘)ではなく、代わりに自分の娘を[そのことで]叱るのだ。彼女[義理の娘]は理解して[不適切な行いを]正すであろう。(p. 30、原文未見)
むしろ直接に聞いているアブラハムのほうが罪が重い、という考え方ですね。それに続く現実の処世訓がリアルです。


次は出エジプト記15節20章。
アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。(新共同訳)
註して曰く、
ミリアムはモーセが生まれる以前に既に預言者であった。彼女は彼女の母が、出エジプトの際にイスラエルを導く子を生むことを預言した。バヒヤ(・ベン・アシェル)は言う。女性が預言することは全く奇異なことではない。女性もまた人間であり、彼は男[アダム]から作られたのだから。そしてサラは彼女の夫アブラハムよりも偉大な預言者である。バヒヤはさらに言う。女性を軽蔑するべきではない。なぜなら敬虔な女性は敬虔な男性よりも優れているためである。アビガイルは預言者であり、トーラーには述べられていない、来たるべき世のことについて語った。そしてハンナはトーラーには述べられていない死者の復活のことを予見した。それ故に女性は尊敬されるべきである。何故なら彼女らが敬虔である時、その敬虔さに限りがないからである。(pp. 30-31、原文未見)

以上の例を見ると非常に「フェミニスティックな」作品に仕上がっているように見えますが、この態度はそれまでのイディッシュ文学やヘブライ文学とは好対照をなしており、ヘブライ語作品=成人男性(特に学者層)対象作品に見られる「女嫌い」とは一風変わった仕上がり(p. 32)であり、この作品が広まった=ほぼ全てのアシュケナズィーが、少なくとも幼少時に母親からこの作品に触れた(読んだ、聞いた)故に、アシュケナズィーコミュニティ内の女性の地位が上昇することになった(p. 52)、と述べます。


日本ではイディッシュ文学というと、どうしても近代文学の方に目が行きがちで、実際そういう傾向は日本だけではないようですが、この作品はもっと取り組まれるべきだと思います。

イスラエル内務省の学生ビザ延長拒否に対し抗議

以下のような記事を紹介されました。
「学生ビザの延長を認められず国外退去にさらされるヘブライ大在籍日本人研究者」
http://www.haaretz.co.il/news/education/1.1614143

英語の記事を見つけられませんでしたが、ヘブライ大博士課程(ユダヤ思想専攻)に在籍する山城氏の学生ビザの延長をイスラエル内務省が拒否し、その決定について抗議する署名が、博士課程の学生・教師を合わせ300人以上集まり、大統領、首相、教育大臣に向けて送ったそうです。山城氏は学士・修士をヘブライ大学で取得、その後博士課程に進学し、8年以上イスラエルに在住している由。
イスラエル留学生への学生ビザ延長拒否は今回の事例に限られるわけではなく、記事でも「過去にもユダヤ思想専攻のドイツ人学生が延長を拒否されイスラエルでの学業中断を余儀なくされた」とあり、学生ビザに限らず、大学教教授職等を得た後の就労ビザ(正式に契約されているのに)延長に関しても様々な人が戦々恐々としてしている様を個人的に漏れ聞いてます。

2012年1月8日日曜日

Regaladas de sus madres

Refael, Shmuel, 2010. 'Regaladas de sus Madres: Judeo-Spanish Women's Poetry on the Holocaust', European Judaism 43(2), pp. 76-91.

仮にもユダヤ教を勉強中の身として、ショアー(ホロコースト)に関心があります。
一昨年の秋に東欧を訪れた折、当時のアシュケナズィー(ヨーロッパ・東欧ユダヤ人)文化の「過去の」中心地を訪れ、往時を偲び、当時のゲットー跡や博物館、現存するシナゴーグや墓地、またアウシュヴィッツ以外の絶滅収容所も訪れました。
一般的にはあまり意識されていませんが、ショアーで犠牲になったのはアシュケナズィーだけではなく、セファラディーも含まれます。11月のエントリーで紹介した映画 "My Sweet Canary" でも紹介しましたが、特にギリシャの破壊は凄まじく、東欧の他の都市と同じく、サロニカ(テッサロニキ)の90%程度のユダヤ人(多くがセファラディー)は殺されました。

私が初めてその事実を意識したのは、プリーモ・レーヴィ(1919-1987)の小説においてです。日本でも竹山博英氏による流麗な翻訳で知られていますが、彼の『アウシュヴィッツは終わらない』の続編、『休戦』(最近岩波文庫に入りましたね)において「ギリシャ人」としてセファラディーのモルド・ナフムが出てきた時です。彼らは「スペイン語」でお互いに連絡を取り合い、商才に優れ云々、とあり、また、以下のような印象的なやり取りがあります。

「ギリシア人はそれまで、意味ありげに口をつぐんでいた。だが私が惨状を確かめようとして荷物を置き、縁石に腰を下ろすのを見て、問いかけてきた。 
『何歳なんだ?』 
『二十五歳だ』 
『職業は何だ?』 
『科学者だ』 
『それじゃあ、おまえはばかだな』とギリシア人は涼しい顔で言った。『靴を持っていないやつはばかだ』 
彼は偉大なるギリシア人だった。私の人生で、以前も、以降も、これほど具体的な英知の声が頭上に響くことはほとんどなかった。反論は不可能だった。その論旨の正しさは、目に見え、手に触れることができた。私の足には原形をとどめていない廃物が、彼の足には光り輝く脅威の品があった。弁解の余地はなかった。」
プリーモ・レーヴィ(竹山博英訳)『休戦』、朝日新聞社、1998、41項。

アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察 (朝日選書)アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察 (朝日選書)
プリーモ・レーヴィ 竹山 博英

朝日新聞社出版局 1980-01
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休戦 (岩波文庫)休戦 (岩波文庫)
プリーモ・レーヴィ 竹山 博英

岩波書店 2010-09-17
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(プリーモ・レーヴィの代表作であるこの二冊も非常にオススメです)

それ以来ショアーとセファラディーというテーマが頭にあったので、この論文を読んでみました。
この論文で著者はショアーに関して詩作をした女性に焦点を当て、その詩の特徴を分析し、「オスマン領での家父長的家族における伝統的役割への回帰願望」と結論します(p. 82, 87)。その結論の是非はさておき、なかなかに興味深い論文でした。

なお、ショアー研究とジェンダー研究が一体どのような関連を持つのか、ということについてはちゃんと先行研究があるようです(Ofer, Dalia and Lenore Weitzman, 1999. 'The Role of Gender in Holocaust Research', Yalkut Moreshet 67, 9-24(in Hebrew).)。ショアー研究においてジェンダーの違いというのは有意味なのか否かという問に於いて曰く、
①ショアー以前は男性と女性で持っている知識や技能に違いがあった
②大体において婦女子は成人男性ほど危険に直面しているわけではなく、成人男性のみが直接の脅威にさらされると信じられていた
③反ユダヤ主義政策における、男性・女性に対するナチス政権の態度の違い
④ドイツの政策に対する反応の違い、女性は全力で家庭的安らぎ(The atmosphere of the home)を守ろうとした
とのこと(p. 79)。

著者はすでにこのテーマに関する単著をものしていますが(Refael, Shmuel, 2008. Un Grito en  el Silencio:  La Poesía sobre el Holcausta en lengua sefardí: Estudio y antología (Barcelona: Tirocinio). http://ecom.tirocinio.com/shop.pl?ACTION=thispage&thispage=cat011.htm&ORDER_ID=309724059)、その中で詩作の時期を8段階(1940年代~90年代末・00年代初頭)に分けているようです。まず興味深いのは、ショアーに関する詩作をしたセファラディーのうち、全体の43%もの割合を女性が占めていること(p. 77)。セファラディー文学史において女性は通常「書く」主体とは成り得ません。もちろんそれは文学史において女性は全く位置を占めなかったというわけではなく、口承文学の伝統・伝承において非常に大きな役割を果たし、その文化的貢献は計り知れません(セファラディー口承文学選集の出版は多数に上ります)(p. 78)。
そのような伝統が徐々に変わり始めるのが20世紀に入ってから(前述の "My Sweet Canary" を想起してみて下さい)なのですが、何故敢えてユダヤ・スペイン語伝統が消滅の危機にさらされていくまさにその時に女性がその言語で「書く」ことを始め、あえてショアーについて書くのか、これは興味深い論点です。

また、ショアーについて詩作をした多くの女性は、大体ショアーが終わってから、そして一人の女性が多数の詩を詠む、というよりは一作のみ、というパターンが多いようです。著者はショアーについて詩作した女性で、十分に研究がなされた18人を挙げていますが、そのうち実に12人が一本のみの詩作。そして多くは1980年代と90年代に詩作をしているとのこと(p. 80)。そしてこれも興味深いのですが、18人中2人のみがサバイバー(Mayo Fintz, Bouena Sarfatty-Garfinkle)とのこと(p. 81)。

テーマとしては①「家族」の喪失への嘆き、②ショアーにおける女性、という2つの基本テーマに分類でき、18人中15人が①のテーマへの偏りをみせるようです(p. 81)

実際の詩の分析で興味深かったのを一篇抜粋します。
一つはRachel Farhí-Uzielによる 'Vijita'(訪問)。

「アウシュヴィッツ、ダッハウ、ベルゲンベルゼンから私の叔父・叔母・甥が私のキッチンに集まって、ショアー記念日の昼下がりにコーヒーを飲みに来る…。私の家族はこんなにも多かったのだ。彼らは泣かず、ただ彼らの悲劇を語るだけ。彼らは口を閉ざし、彼らの顔を想像している私を見ている…。」(p. 82-83)

キッチンはセファラディー女性にとって伝統的な領域であり、彼らの夢であるエルサレムの地(まさにこの詩人が語り、生きているその場)に、彼らを死の淵から招き、伝統的なセファラディー家族のパーティーへ呼び戻す。ナチスによって破壊された家族を再生し、そこで本人はショアー以前の伝統的な女性の役割へと回帰している、と著者は分析します(p. 83)。

他にもJudy Frankelの歌唱で有名なJani Adato Tarabulusによる 'O Mis Hermanos' (兄弟たち…)。があり、これを著者は基本テーマ①の「家族」の範囲をギリシャのユダヤコミュニティまで広げたものと解釈します。

Sephardic Songs of LoveSephardic Songs of Love
Judy Frankel

Global Village 1995-10-19
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著者のShmuel Rafaelの本(前掲)はスペイン語及びユダヤスペイン語ですが、英語でもIsaac Jack Levyが以下のような本を出しているので、興味がある人は是非手に取ってみて下さい。私はまだ未読です。

And the World Stood Silent: Sephardic Poetry of the HolocaustAnd the World Stood Silent: Sephardic Poetry of the Holocaust
Isaac Jack Levy

Univ of Illinois Pr 2000-03
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2012年1月7日土曜日

最近買った本

最近、ニューヨーク(ブルックリン)とテルアビブの古書店から買った本です。
セファラディー文学の研究なぞ、そもそもセファラディーの専門家が一人もいない日本では勿論皆無なので、日本国内の図書館に頼ることはほぼ出来ません。特に校訂版とかもあるわけではないので、実際のテキストを読もうとすると、図書館や研究所のアーカイブに頼ることになります。が、やっぱり人情として出来ることなら手元に置いておきたいですよね。

そんな中でいい古書店に出会ってしまい、思わず古書を中心に本を大量に買ってしまいました…。19世紀後半〜20世紀前半の本はそこそこ手が届く値段で買えてしまうので、むしろ危ないですね…。これ以外にも興味深い本はいっぱいあります。
思えば今年度はほとんど欲しい本を買っていなかったのと、この機会を逃すと当分手に入らなさそうな本もいっぱいあったので、ここにきて一気に噴出してしまった感じです。
ただ、今回の買い物で、二次資料だけでなく、数はそんなにないですがおそらく一次資料の所蔵量も日本一になったのではと思います。
ユダヤアラビア語・ユダヤペルシャ語・イディッシュは将来のためにちょこちょこ買ってみました。
なお、現物はまだ見てないので細部は適当なのでご容赦を。

La Istoria Judaica Universal 1922, Istanbul
La Istoria Judaica Universal 1925, Istanbul
Hesheq Shlomo (Me'am Lo'ez) 1893, Jerusalem
ユダヤスペイン語訳聖書 1873, Constantinople
Shemot (Me'am Lo'ez) 2 vols. 1884, Jerusalem
Bereshit (Me'am Lo'ez) 1897, Salonika
Bereshit (Me'am Lo'ez) 1864, Izmir
Otsar Hokhma (Me'am Lo'ez) 1898, Constantinople
Haggadah (Reprint, in Judeo Spanish) 1825, Livorno
Vehochiach AVRAHAM PALAGI 1877, Izmir
Rosh Ha Shanah Machzor (in Judeo Spanish) 1923, Vilna
Isaiah (Me'am Lo'ez) 1892, Salonica
Former Prophets (Me'am Lo'ez?) 1890, Izmir
諸書(Judeo Persian) 1907, London
Avot (Judeo Arabic) 1920, Tunis
Sephardic Fast Prayers with Judeo Spanish and Judeo Arabic
Petah Eliyahu (Judeo Arabic) 1944, Djerba
Samaritan Pentateuch 1966, Israel
Ze'ena u-Re'ena (Yiddish) 1860, Vilna
Avraham Yehuda, Erev va Arab 1946, ?
Klara Perahya et Elie Perahya, Dictionnaire francais - judeo - espagnol
Philip Birnbaum, The Arabic Commentary of Yefet Ben 'Ali The Karaite on the Book of Hosea, 1942, The Dropsie College for Hebrew and Cognate Learning
Joseph Naveh, Shaul Shaked, Amulets and Magic Bowls: Aramaic Incantations of Late Antiquity, 1997, Israel: Magnes Press
David M. Bunis, Lexicon of the Hebrew and Aramaic Elements in Modern Judezmo, 1993, Jerusalem
Joshua Blau, Judaeo-Arabic Literature: Selected Texts, 1980, Jerusalem: Magnes Press

なお、Me'am Lo'ezのエステル(1864年Izmir初版)もテルアビブの本屋さんに注文したんですが、「ごめん、悪いけどちょっと見当たらんわ」という返事がきて、「代わりにこれいる?実際はもうちょい高い値段なんだけどお詫びに…」と提示されたのが1885年エルサレム刊のユダヤアラビア語訳コヘレト。渋い…。
迷いましたが返金してもらいました。

なお、1920年神戸(!)刊のヘブライ語・ロシア語併記祈祷書が欲しい人がいればお知らせください。「日本人でこれ欲しい人いないかな〜」と探してるみたいです。
今回のやり取りでこれからも贔屓にしてもらえるとありがたいですね。メールで色々と興味深い話をして仲良くなりました。

この一週間ほどは授業に追われて疲れました。

2012年1月1日日曜日

Eli'ezer and Juda Papo, Pele Yo'ets

Lehmann, Matthias B., 2003, 'Representations and Transformation of Knowledge in Judeo-Spanish Ethical Literature: The Case of Eli'ezer and Judah Papo's "Pele Yo'ets"', in
Jewish Studies Between the Disciplines: Judaistik Zwischen Den Disziplinen : Papers in Honor of Peter Schafer on the Occasion of His 60th BirthdayJewish Studies Between the Disciplines: Judaistik Zwischen Den Disziplinen : Papers in Honor of Peter Schafer on the Occasion of His 60th Birthday
Peter Schafer

Brill Academic Pub 2003-07
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(pp. 299-324)

著者は以下の単著も出版しています。
読まねば読まねば、と思ってまだ読んでいません…。

Ladino Rabbinic Literature And Ottoman Sephardic Culture (Jewish Literature and Culture)Ladino Rabbinic Literature And Ottoman Sephardic Culture (Jewish Literature and Culture)
Matthias B. Lehmann

Indiana Univ Pr 2005-11
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なお、Peter Schaferの著書は最近日本語に訳されました。
ドイツらしい?文献学に基づいた精緻な議論が展開されています。

タルムードの中のイエスタルムードの中のイエス
ペーター・シェーファー 上村 静

岩波書店 2010-11-17
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ペレ・ヨエツはエリエゼル・パポ(Rabbi Eliezer ben Shem Tov Papo, 1785 サライェヴォ生、ラビを務めたSilistriaにて1828逝去)によって1824年、ヘブライ語で出版(イスタンブル)され、息子のユダ・パポ(により1870年及び1872年にウィーンでユダヤ・スペイン語に訳され出版、その後も好評を博したのか1899年及び1900年にサロニカで第二版が出版されたようです(息子は出版後すぐの1873年にエルサレムで亡くなります)(p. 299)。ちなみにM.D. Gaonという人に由来するのか、各種図書館などの書誌情報に親子の混乱や生没年の混乱が見られるようですので、もし調査なされる場合はお気をつけ下さい。
子のユダが父のエリエゼル・パポの遺稿を整理したのか訳したのか、1860年代より彼の名前でダメセク・エリエゼルという、ユダヤスペイン語によるテーマ毎に分類されたハラハーの書物があるせいかも知れません。なお論文の著者によると(p. 302注13)ダメセク・エリエゼル(Orah Haiim)が1860年から1867年にかけてベオグラードで出版、1877年にイズミルで出版、またYore De'aが二巻本でベオグラードにて1865年、エルサレムにて1884年に出版とありますが、1867年にイズミルでも出版されているようです(詳細が分かり次第また追記します)。
(なお、ペレ・ヨエツのヘブライ語版は校訂本(1994)があり、論文の著者による英語版もあります。)

ダメセク・エリエゼルが個別の宗教的テーマを扱ってるとするなら、セファラディ倫理文学に属するペレ・ヨエツはメタ・ハラハー的テーマを扱っている、とのこと(p. 302)。
重要なことに、ヘブライ語とユダヤスペイン語訳では内容の追加どころか、そもそもの論争相手や聴衆までも違うようです。翻訳という作業を考えたら当たり前なのですが、父エリエゼルの手によるヘブライ語原書は同僚のラビたちにピルプールを戒める内容なのに対し、ユダヤ・スペイン語訳ではセファラディ一般大衆の近代知への警鐘とラビ・ユダヤ教の伝統の遵守が主目的なのです。もちろんこれはヘブライ語・ユダヤスペイン語という聴衆の違いに由来するだけではなく、1824年と1860年という時代の断絶にもよります。1839年のオスマン帝国のタンズィマートにより西洋の文物が導入され、フランスからアリアンスが入り、本格的に近代との邂逅を果たしたセファラディ世界において、ユダは単に父の著書を言語的に翻訳するだけではなく、彼の時代において新しく創造し直したといっても良いでしょう。

ペレ・ヨエツの構成としてはダメセク・エリエゼルや他のヘブライ語文学史の伝統にもあるような、テーマごとにアルファベットで配列するというものです。ただどうもこの構成はユダヤスペイン語では厄介だったものらしく、色んなところに飛ばされたりと使い勝手自体はそんなに良くなかったようで、また分冊で出版されたにも関わらずテキストは全体で一冊として書かれているために一冊しか持ってない人は支障があったようです。
このエンサイクロペディア的伝統はもちろんMe'am Lo'ezに連なるもので、願いとしては一般大衆に出来る限りの知識を与えたい、ユダヤ教のコアの部分をしっかりと把握して欲しい、というもののようです。それはパポ自身がこの本を毎日暇なときに読むばかりでなく、安息日にも皆で集まって読まれるよう、ユダヤスペイン語を解する者は男性だけでなく老若男女問わず、また伝統的なユダヤ教学校でも教科書で使われるよう、書いていることからも明らかです(p. 310)。
ただ彼が特に女性に対して極めて先進的であったというわけではなく、それによって家父長制の維持を楽にしようという意図だとか。しかしながら読み書きに関しては最低限読めるように(おそらく自著も含めユダヤスペイン語で書かれた伝統的なユダヤ教書物にアクセスできるように)、という思いはあったようで、それはアシュケナズィーとの比較によって書かれています。曰く、「トルコの地の女性は読み書きを習わないせいでトーラー朗唱や祈祷について非常に無知であり、そのようなことは、皆が皆読み書きが出来るヨーロッパの地のアシュケナズィーの女性の間では滅多にないことである」(p. 310-311, originally Pele Yo'ets 1: 234.)。最終的にはユダは女性のあいだでもシャバットの時などで皆で集まって読んで欲しかったようです。残念ながら20世紀半ばになっても読み書きができるセファラディーの女性は稀なようでしたが。
(前々回に紹介したAlisa Meyuhas Ginioの論文に出てきます。曰く、論文著書の祖母Simha Eliachar Meyuhas(Jerusalem, 1865-1951)はしばしば女性の友人を招き、シャバットのキドゥーシュと朝食の後にMe'am Lo'ezの該当箇所を読んだが、19世紀末、20世紀初頭のエルサレムではそのように読み書きのできる女性は非常に少なく、ラビの家系の娘である彼女は、弟と一緒に家庭教師から基本的な読み書きを習ったとのこと(p. 122))

内容としてはスタンダードなラビ・ユダヤ教の護教書なのですが、ユダヤスペイン語オリジナルの、「エピクロス」として一括して他者化される「外部の教え」に対する攻撃が、世相を反映してか際立っていると述べます(p. 318)。面白いのは彼がカントについて言及していて、彼はそれまでの哲学者の説が間違っていると証明した、と紹介されるのですが、それについて賞賛し、彼によって哲学を勉強する必要がなくなった、と結論します。その上でまだ近代知(哲学や自然科学は特に区別されていないようです)にかぶれる「エピクロス」は「他人を唆すが故に偶像崇拝者より性質が悪い」(余談ですがこの表現は色々な文脈で使われます。一度アンチシオニズムのユダヤ人がレビ記18:21を引用して、同じような論法でシオニストを批判しているのを聞いたことがあります)とし、彼らの間違いを四段階に分類します。一つ、賢者を尊敬しない。彼らは傲慢故に非難される。二つ、ラビ・ユダヤ教の統合的知識に対して疑問視、彼らの好む勉強をしたいと訴える。ラビが彼らの母語で著作をしているにも関わらず彼らはそれを受け入れない。彼ら自身が必要・不必要を判断するところに問題がある。三つ、むしろ伝統的な理想的生活、つまりトーラーの学習と神への献身自体に疑問を投げかけ、ラビ的ユダヤ教の外の世界での自己満足・自己実現を図ろうとする。四つ、最悪なのはこれらの見解を他の者にまで広め、同じように生きることを教唆すること(p. 322-323) 。

また、哲学者を論破・風刺するために、彼らの哲学的前提を利用した次のような寓話を用います。なお、ユダ・パポによると哲学者とは「己の目で見たものをそのまま鵜呑みにせず理性を用いて思考する」という者です。

二人の旅人がおり、ひとりはアレッポから、ひとりはダマスカスからやってきてバグダードで出会いました。彼らは一緒に各々のためのパンを買いましたが、アレッポからの旅人が外に出ている時にダマスカスからの旅人はパンを全部食べてしまいました。アレッポ人はダマスカス人を責め、裁判を起こしました。裁判官の前でダマスカス人は彼の行動を以下のように説明します。
「私たちが街についた時、アレッポ人は宿のドアを先に入りました。彼の言うところでは、自分は賢者(haham)であると。そして実際には彼の方が若いのにも関わらず、老若は年齢ではなく科学的知(cencia)によって図られるべきだと。そこで私は『私だって私の職業である画家、美しい絵を書くことにおいては賢者(haham)だ』と言い返しました。すると『哲学者』は私を責め、目に見えるものなぞ何ほどのものだろうか、と言いました。となると、例えば彼の目には一つのパンと見えても、深いところでは二つのパンではないでしょうか。」
つまり、彼はアレッポ人が外に出ている時にお腹がすいて「眼に見える」パンを全て食べようと決心した、ダマスカス人は「理性の眼で見える」パンが残ってるからそれを食べればいい、ということです。(p. 320)

著者はこの論文で知識社会学の枠組みを使い、「伝統知」が「象徴的世界」を維持するための「異端」への三つの対応、即ち、legitimation, therapy, nihilationという枠組みを使い、それをPele Yo'etsに適応しようとします。結論としてユダ・パポは、①legitimationにおいてはラビ・ユダヤ教の伝統的知識以外を他者化することによって果たし、②therapyにおいてはユダヤスペイン語で一般大衆に語りかけることで異端と戦う社会的陣営を整え、③nihilationにおいては彼らの哲学的前提を逆手にとった寓話を用いて果たしたとします。


なんとなく近代と出会ったら皆が皆伝統から離れていくようなイメージがありますが、上記のような内容・目的であったにも関わらず(そのような目的であったからというべきか)、この本がかなり売れたというのは、個人的に結構予想外です。