2012年1月11日水曜日

Tze'enah u-Re'enah

Minkoff, Harvey, 1993. 'Was the First Feminist Bible in Yiddish?', Moment 16(3), pp. 28-33, 52.

あまり日本では紹介されてないと思いますが、צאינה וראינה(イディッシュ発音では「ツェネ・レネ」)という雅歌3章11節から題名を取った、「Women's Bible」とも呼ばれるイディッシュで書かれた作品があります。
(日本語による解説でパッと思いつくのは、以下のジャン・ボームガルテン(上田和男・岡本克人訳)『イディッシュ語』、白水社、1996年、55-56項)

イディッシュ語 (文庫クセジュ)イディッシュ語 (文庫クセジュ)
ジャン ボームガルテン Jean Baumgarten

白水社 1996-11
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16世紀末頃から17世紀初頭辺りに生まれたこの作品は、ヤノフ(クラクフ近郊?)のヤコヴ・ベン・アシュケナーズィーの手によるものです。モーセ五書、ハフタロート、メギロートに対する註釈アンソロジー集とも言えるもので、タルムードやミドラシュ、あるいは倫理文学や民話を民衆の言葉、つまりイディッシュ語で書いたものです。ヨーロッパのアシュケナズィーの間で絶大な人気を博し、なんと16世紀から20世紀にかけて210版(!)以上も版を重ねたという驚異的な作品です。本書の目的について、現存最古の版である1622年バーゼル版の表紙には以下のように記されています。「男女ともに、分かり易い言葉で聖書を理解できるように」

この作品は内容自体もさることながら、文献学的にも非常に興味深い対象です。というのも、本書は当初、東西のアシュケナズィーが理解できる「共通イディッシュ語」とも言える文章で書かれていたらしいのですが、後に「東方ユダヤ人」向けに「新正書法版」とも言えるものに生まれ変わる(つまり言語変化が分かる)やら、「マスキール(啓蒙主義者)版」があるわ「ハスィード版」があるわ(後のエントリーでもまた触れます)、と、下世話な言い方ですが「ネタ」の宝庫です。この本がアシュケナズィー一般民衆の間で、いかに影響力があったかが窺い知れる事実ですね。

さて本論文はジェンダー研究の文脈からこの本を取り上げた物で、当時の「フェミニスト神学(聖書学)」を念頭に置いていると思われます(狙ってるわけではないのですが、最近ジェンダー研究が絡んでいる論文を読むことが多いです)。
アンソロジーは単なる「寄せ集め」ではなく、取捨選択と配列に編集者=作者の個性が強く出る、れっきとした一個の「作品」だと思いますが、ではこの本ではどのような女性観が見られるのでしょうか。


まずは失楽園。創世記3章12節、善悪の知識の木の実を食べてしまい、アダムが神に詰問される箇所です。
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(新共同訳)
註して曰く、

アダムは彼が犯した罪を認めも悔いもしなかった。むしろ『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女』を責めた。つまり、彼は彼が享受した幸福(favor)──妻を与えられたこと──を拒絶したのである。ここにおいて彼は、もし彼が一人でいたままであったら罪を犯さなかっただろうと述べているのである(p. 30、原文未見)
ここでは敢えてアダム・イヴともに同罪であるという解釈を採用しています。


次は創世記17章、18章特に18章12節、年老いたサラが子どもを授かるという預言を「サラはひそかに笑った」(18章12節)という箇所について。伝統的なユダヤ教の註解ではこの箇所を「サラの神の全能性に対する信仰心の欠如」として捉えることが多いのですが、さていかに。

註して曰く、
しかしアブラハムもまた笑ったのだ。曰く、「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って[、ひそかに言った。『百歳の男に子どもが生まれるだろうか。九十歳のサラに子どもが産めるだろうか』](創世記17章17節)。サラは[神の]啓示(promise)を直接に聞いてないが、アブラハムは直接に[啓示を]聞いている。では何故に神はサラに怒られたのか(創世記18章13節)。実際のところ、神はサラの言動に対する怒りを持って[間接的に]アブラハムに対して怒られているのであり、神はアブラハムが[サラへの怒りでもって実際は自分が怒られていることに]気づくということを知っておられるのである。彼(アブラハム)に恥をかかせないため、神は彼を間接的に叱られたのだ。このことは不適切な行いのため義理の娘を叱りたいと思っている女性にも当てはまる。彼女に恥をかかせないため、彼女自身(義理の娘)ではなく、代わりに自分の娘を[そのことで]叱るのだ。彼女[義理の娘]は理解して[不適切な行いを]正すであろう。(p. 30、原文未見)
むしろ直接に聞いているアブラハムのほうが罪が重い、という考え方ですね。それに続く現実の処世訓がリアルです。


次は出エジプト記15節20章。
アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。(新共同訳)
註して曰く、
ミリアムはモーセが生まれる以前に既に預言者であった。彼女は彼女の母が、出エジプトの際にイスラエルを導く子を生むことを預言した。バヒヤ(・ベン・アシェル)は言う。女性が預言することは全く奇異なことではない。女性もまた人間であり、彼は男[アダム]から作られたのだから。そしてサラは彼女の夫アブラハムよりも偉大な預言者である。バヒヤはさらに言う。女性を軽蔑するべきではない。なぜなら敬虔な女性は敬虔な男性よりも優れているためである。アビガイルは預言者であり、トーラーには述べられていない、来たるべき世のことについて語った。そしてハンナはトーラーには述べられていない死者の復活のことを予見した。それ故に女性は尊敬されるべきである。何故なら彼女らが敬虔である時、その敬虔さに限りがないからである。(pp. 30-31、原文未見)

以上の例を見ると非常に「フェミニスティックな」作品に仕上がっているように見えますが、この態度はそれまでのイディッシュ文学やヘブライ文学とは好対照をなしており、ヘブライ語作品=成人男性(特に学者層)対象作品に見られる「女嫌い」とは一風変わった仕上がり(p. 32)であり、この作品が広まった=ほぼ全てのアシュケナズィーが、少なくとも幼少時に母親からこの作品に触れた(読んだ、聞いた)故に、アシュケナズィーコミュニティ内の女性の地位が上昇することになった(p. 52)、と述べます。


日本ではイディッシュ文学というと、どうしても近代文学の方に目が行きがちで、実際そういう傾向は日本だけではないようですが、この作品はもっと取り組まれるべきだと思います。

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