2011年12月30日金曜日

The History of the Me'am Lo'ez

Meyhuas Ginio, Alisa, 2010. 'The History of The Me'am Lo'ez: a Ladino commentary on the Bible', European Judaism 43(2), pp. 117-125.

これからは読んだ論文もちょこちょこまとめていこうと思います。
日本では(でも)全く知られていませんが、複数の著者による、「Me'am Lo'ez メ・アム・ロエズ」(書名は詩篇114篇1節に取材)という非常に重要なセファラディーの文学作品があります。この作品は聖書の一節一節(実際はパラシャー毎にまとめられている)に沿った「エンサイクロペディア」とも呼ばれる作品で、古今のアガダー・ハラハーのみならず、天文学や民話にまでも取材し、それぞれの作者自身の言も含まれます。
論文の構成とは前後しますが、まずは基本的な成立・出版状況について(pp. 122-124)。Elena RomeroによるとMe'am Lo'ezの歴史は三段階、古典期・過渡期・新期に分かれるとのこと。

古典期。ラビ・ヤアコーヴ・フーリー(Rabbi Ya'akov Khuli)1689年エルサレム生まれ、1732年イスタンブル没)主導のもと行われましたが、1730年に創世記を出版し、続いて出エジプトの途中まで出版した後に病に倒れ、その後その仕事は 数世代に亘って受け継がれます。エディルネのラビでダヤンであったラビ・イツハク・マグリッソ(Rabbi Yitzhak Magrisso)は1733年に出エジプトの続きを完成させ、レビ記と民数記をそれぞれ1753年、1764年に完成させます。その後エルサレムのラビ・イツハク・シュマリア・アルグエテが申命記を部分的に完成させ、1773年にイスタンブルで出版。
五書についてのMe'am Lo'ezは以上創世記2冊、出エジプト記2冊、レビ記・民数記・申命記各一冊の計7冊になります。

過渡期。その後19世紀に入り五書だけでなく、預言書・諸書に関しても部分的に仕事がなされるようになります。通常五書以外のMe'am Lo'ezは「質が落ちる」と語られますが、その辺はどう違うのか、二次資料を当たり始めた現時点の自分にはよくわかりません。
ヨシュアについて記したのはエディルネのラビ・ラハミーム・メナヘム・ミトラニ。彼は1844年に作業を始め、一巻の初版をサロニカにて1851年に出版(二版は1867年同地)、その後作業途中の原稿を1862年の火事で消失、露土戦争の戦果を避けて1866年にエルサレムに移住するなどかなり苦労したようですが(p.123)、最終的に1867年彼が死去した後、作業を手伝っていた息子が完成させ1870年にイズミルで出版します。また、エステルについてはあんまり触れられていませんが、イズミルのダヤン、ラビ・ラファエル・ハイイム・フォントリモリ(Rabbi Rafael Chaim Fontrimoli)によって出版されています。この論文では出版年が抜けていますが、おそらく1864年が初版でしょう。

新期。過渡期と新期を分けるのは近代と西欧啓蒙の影響が見られるか否かという点のようです。個人的には過渡期の年代も、1839年のタンズィマート後なので怪しいような気もしますが、今後の課題です。なんにせよラファエル・ベンヴェニステがルツを記し1882年にサロニカで出版、イツハク・イェフダー・アバがイザヤについて記したのが1892年サロニカにて。コヘレトは少し変わっていて、2バージョンあります。シュロモー・ハ・コヘンが「ヘシェク・シュロモー」と名付けたものは1893年エルサレムで出版。ニスィム・モシェ・アブドゥが「オツァル・ホフマー」と名付けたものがイスタンブルにて1898年出版。どうも後者の方が前者よりも包括的だとか(p. 123)。ただ、この論文ではヘシェク・シュロモーもMe'am Lo'ezに含めていますが、Rabbi Aryeh Kaplanなんかは含めていないようです。最後は雅歌で、ハイイム・イツハク・シャキー(この人個人的にずっと気になってます)の手によって1899年イスタンブルで出版。

以上が伝統的なMe'am Lo'ezの歴史です。ヘブライ語や英語訳が聖書全体にわたってあるため、もともとユダヤ・スペイン語であると思いがちですが、実はそんなことありません。というのはMe'am Lo'ez(Yalkut Me'am Lo'ez)のヘブライ語への訳者であるラビ・シュムエル・イェルシャルミー・クロイツァー(Rabbi Shemuel Yerushalmi Kreuzer)がMe'am Lo'ezのプロジェクトの理念を引き継ぎ、ユダヤ・スペイン語で記されてない聖書の他の書物全てに、今度はヘブライ語で記したのでした(p. 124)。


さて、Me'am Lo'ezの画期的だった点はなんといっても「万人が理解できるユダヤスペイン語で、万人(’para el hamon ha'am’, Me'am Lo'ez: p.7)に対して、包括的にラビユダヤ教の伝統的知識・観点を提示した」という点にあります(p. 119)。
それまでのセファルディー社会では重要な著作はほとんどヘブライ語で書かれ(ヨセフ・カロのシュルハン・アルーフを思い出されるとよいと思います)、それに関するユダヤスペイン語訳はあったものの、次第に大多数のセファルディーたちは経済的後退とともに文化的後退も余儀なくされ、ヘブライ語書物へのアクセスができなくなっていきます。フーリーの時代には彼自身がMe'am Lo'ezの序文(ヘブライ語とユダヤスペイン語がある)で述べているように、子々孫々受け継がれてきた書物は各家庭にあるものの、ヘブライ語にアクセスできないために埃まみれになってる、家に帰っても読める本がない、毎週土曜の礼拝でも自分が何を言ってるのか分からない等々、という看過できない状況だったようです。フーリーの上記記述は聖なる言語ヘブライ語でなく俗語・ユダヤスペイン語で著作・翻訳をする正当性を他のラビ達に納得させるという意図もあったかと思いますが、結果としてMe'am Lo'ezは爆発的に普及したようです。「他の本はなくともMe'am Lo'ezだけは持ってる」というような家庭も多かったとのこと(この手の話は至るところにでてくる)。
Me'am Lo'ezはユダヤスペイン語、その当時のセファラディーの万人が理解できる言語で書かれていたため、今までユダヤ教の伝統的知識の享受者でなかった女性に対して大きな役割を果たし、たとえ文盲であったとしても読み上げられるのを聴くことで、女性のユダヤ教理解に多大な貢献を果たしたとのことです(p. 120)。この観点に関しては著者が別の論文で書いているようなので、また紹介できればと思います。


最新の論文の割には特に新知見があるとか、結論が用意されているというのではなかったですが、Me'am Lo'ezの持つ重要性がコンパクトに述べられて有用だと思いました。

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