昨日はこちらにお住まいのアメリカ系ラビさんに、ハラハー(ユダヤ教宗教法規)講読の前の導入として、(現代)ユダヤ教の基本を講義してもらいました。ご本人はもう70を超えておられるのですが、矍鑠(かくしゃく)としており、説明・ポイントが明確で分かりやすい講義でした。
ラビさんが仰られたことは、宗教としてのユダヤ教のコアの部分。究極的には入門書等に「書いてある」ことなんですが、こういうコアの部分というのは、人生を賭したその実践者が、自分の面前で、自分(達)に向かって口伝してもらうことによって、初めて自分の血となり肉となるものだと思っています。勿論もうこの世には存在しない人間からも学ぶことは出来ますが、やはり口伝してもらった方が、凡人としては体に残ります。
ラビさんのお話では、聴衆が日本人で必ずしもユダヤ教を専門に勉強してきたわけではない人をも対象にしているためか、基本的な、宗教としてのユダヤ教を説明して下さいました。以下は自分なりに理解したところのもので、ラビさん本人の言や考えとは必ずしも一致していないかも知れませんが、どうぞご海容ください。
まずは「宗教」と「哲学」の違い。両概念、特に前者については個々の宗教学者の議論などに深入りすると永遠に終わらなくなりそうなので置いておきますが、ラビさんの理解によると、宗教とは信仰体系と行動(規範)体系を合わせたもの。哲学とは創造主を認めず、世界のみを考察し、思惟の対象とするもの。
哲学と宗教の違いについて、そして宗教と信仰・行動の関係を説明するものとして、ここがユダヤ教ぽいのですが、創世記の1章と2章を引き合いに出して説明して下さいました。
文献学としての近代聖書学の出発点の一つでもあるので有名な話ですが、創世記1章と2章では「神」を指示する語が違います。創世記1章では神はאלוהים(エロヒーム、なおヘブライ語表記はクティーブ・マレー)によって指示されますが、他方2章では突如יהוה(「みだりに神の名を唱えない」ため伝統的にアドナイと発音します)、正確にはיהוה אלוהיםとして指示されます。
そのことを踏まえた上で、まずラビさんはאלוהיםがヘブライ語形態論としては複数形になっていることに注目し、これを「神の諸力」と解釈します。
(なおこの解釈がどこに由来するかは不勉強なため知りませんが、イスラームにおける99の神名أسماء الله الحسنىを連想させ、なんとなく中世の頃かな、と愚考しますが知ってる方がおられたらご教示下さい。)
そしてこの「神の諸力」により宇宙・この世・世界・自然が創造されたとされます。創世記一章のポイントである、「創造主」と「世界」、この両者を分離し、信仰やそれによる行動を伴わなず、「世界」を考察・思惟対象にするのがすなわち「哲学」であり、他方この「創造主」と「世界」を結びつけるのが「宗教」である、と。
そして第二章に至って「創造者」としての神、即ちאלוהיםという呼称だけでなく、その前に「יהוה」がつきます。アドナイאדונייというのはヘブライ語で「我らの主」という意味。ここに至り、創造主אלוהיםとしての神だけでなく、被造物である人間の造物主、信仰対象אדונייとしての神、という告白であるという解釈が成し得ます。この創世記第二章の「神」の呼称の変化をラビさんは「信仰」の開始であると解釈します。つまり第一章では「創造主(の諸力)」と「世界」を結びつけ「宗教」となり、二章でその「創造主」を「我らが主、創造主」と呼称が変更され、「信仰」が発露し、告白される、そしてその「信仰」とは「創造主」の「言葉」を前提し、その「創造主の言葉」が「行動規範」を定めている、とのこと。
他にも様々なことを話して頂きましたが、もう一点、私がした質問「ユダヤ教における祈りの目的とはなにか」という回答をご紹介します。
まず「祈り」תפילהの語根であるפללはラビさんによると本来「話す」の意とのこと。これに基づいて祈りとは即ち「神と語る」ことである、と。そしてその祈りの内実は三つに大別され、「PAT」と覚えると良い、と教えてくれました。PATとは即ち to praise, to ask, and to thank。
また先の議論にも関係しますが、伝統的にはシェマアの祈り、すなわち申命記6章4〜9節のうちの「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(5節、新共同訳)の「בכל לבבך ובכל נפשך ובכל מאודך(心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし)」というのは伝統的なユダヤ教の解釈では、「mind, feeling, behavior」を尽くし祈れ、即ちここでも「祈り」は単なる「信仰」の領域に留まらず、「行動」、実践にも結びついているとのこと。
キリスト教については多少は皆知ってるだろうという思いがあるのか、終始この「行動(規範)」ということに強調が置かれたお話でした。
おまけとして、「ラビとはそもそも何か」という自己紹介の話で、「菩薩のようなものです」と仰ってたのが印象的でした。
ラビさんが仰られたことは、宗教としてのユダヤ教のコアの部分。究極的には入門書等に「書いてある」ことなんですが、こういうコアの部分というのは、人生を賭したその実践者が、自分の面前で、自分(達)に向かって口伝してもらうことによって、初めて自分の血となり肉となるものだと思っています。勿論もうこの世には存在しない人間からも学ぶことは出来ますが、やはり口伝してもらった方が、凡人としては体に残ります。
ラビさんのお話では、聴衆が日本人で必ずしもユダヤ教を専門に勉強してきたわけではない人をも対象にしているためか、基本的な、宗教としてのユダヤ教を説明して下さいました。以下は自分なりに理解したところのもので、ラビさん本人の言や考えとは必ずしも一致していないかも知れませんが、どうぞご海容ください。
まずは「宗教」と「哲学」の違い。両概念、特に前者については個々の宗教学者の議論などに深入りすると永遠に終わらなくなりそうなので置いておきますが、ラビさんの理解によると、宗教とは信仰体系と行動(規範)体系を合わせたもの。哲学とは創造主を認めず、世界のみを考察し、思惟の対象とするもの。
哲学と宗教の違いについて、そして宗教と信仰・行動の関係を説明するものとして、ここがユダヤ教ぽいのですが、創世記の1章と2章を引き合いに出して説明して下さいました。
文献学としての近代聖書学の出発点の一つでもあるので有名な話ですが、創世記1章と2章では「神」を指示する語が違います。創世記1章では神はאלוהים(エロヒーム、なおヘブライ語表記はクティーブ・マレー)によって指示されますが、他方2章では突如יהוה(「みだりに神の名を唱えない」ため伝統的にアドナイと発音します)、正確にはיהוה אלוהיםとして指示されます。
そのことを踏まえた上で、まずラビさんはאלוהיםがヘブライ語形態論としては複数形になっていることに注目し、これを「神の諸力」と解釈します。
(なおこの解釈がどこに由来するかは不勉強なため知りませんが、イスラームにおける99の神名أسماء الله الحسنىを連想させ、なんとなく中世の頃かな、と愚考しますが知ってる方がおられたらご教示下さい。)
そしてこの「神の諸力」により宇宙・この世・世界・自然が創造されたとされます。創世記一章のポイントである、「創造主」と「世界」、この両者を分離し、信仰やそれによる行動を伴わなず、「世界」を考察・思惟対象にするのがすなわち「哲学」であり、他方この「創造主」と「世界」を結びつけるのが「宗教」である、と。
そして第二章に至って「創造者」としての神、即ちאלוהיםという呼称だけでなく、その前に「יהוה」がつきます。アドナイאדונייというのはヘブライ語で「我らの主」という意味。ここに至り、創造主אלוהיםとしての神だけでなく、被造物である人間の造物主、信仰対象אדונייとしての神、という告白であるという解釈が成し得ます。この創世記第二章の「神」の呼称の変化をラビさんは「信仰」の開始であると解釈します。つまり第一章では「創造主(の諸力)」と「世界」を結びつけ「宗教」となり、二章でその「創造主」を「我らが主、創造主」と呼称が変更され、「信仰」が発露し、告白される、そしてその「信仰」とは「創造主」の「言葉」を前提し、その「創造主の言葉」が「行動規範」を定めている、とのこと。
他にも様々なことを話して頂きましたが、もう一点、私がした質問「ユダヤ教における祈りの目的とはなにか」という回答をご紹介します。
まず「祈り」תפילהの語根であるפללはラビさんによると本来「話す」の意とのこと。これに基づいて祈りとは即ち「神と語る」ことである、と。そしてその祈りの内実は三つに大別され、「PAT」と覚えると良い、と教えてくれました。PATとは即ち to praise, to ask, and to thank。
また先の議論にも関係しますが、伝統的にはシェマアの祈り、すなわち申命記6章4〜9節のうちの「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(5節、新共同訳)の「בכל לבבך ובכל נפשך ובכל מאודך(心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし)」というのは伝統的なユダヤ教の解釈では、「mind, feeling, behavior」を尽くし祈れ、即ちここでも「祈り」は単なる「信仰」の領域に留まらず、「行動」、実践にも結びついているとのこと。
キリスト教については多少は皆知ってるだろうという思いがあるのか、終始この「行動(規範)」ということに強調が置かれたお話でした。
おまけとして、「ラビとはそもそも何か」という自己紹介の話で、「菩薩のようなものです」と仰ってたのが印象的でした。
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