2011年11月1日火曜日

絶対貧困

数日前にエルサレムに戻ってきました。
私だけかも知れませんが、どうしてフライトの前、空港の本屋に寄ると妙に本を買いたくなるんでしょうね。

今回購入したのはこちら。

絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)絶対貧困―世界リアル貧困学講義 (新潮文庫)
石井 光太

新潮社 2011-06-26
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前々から気になっていたのですが、ハードカバーが最近文庫化されたようなので購入。
著者の本は他にも気になってますが、こちらが書店に並んでいたので購入。

「貧困学」というのは著者の造語ですが、言わんとすることは以下の通り。

「通常、大学などで途上国の貧困を研究したいと思った時、国際関係学の一分野である国際開発論を勉強することになります。あるいは、国際経済学だとか、国際社会学といった領域からその道に入る方もいらっしゃるでしょう。これらの研究は貧困地域の様々な問題を見直し、どうすれば発展していけるかを考えるものです。(中略)…国際開発論のように最大公約数としての統計をだし、問題解決の緒をつかむことは重要です。ただ、それに加えて、現地で生きる人々の目線で個々が生活の中で抱えている小さな問題をまとめる研究分野があってもいいと思うのです。どちらか一方からだけではなく、双方の視点から考えることができれば、より広くて深い所から、貧困問題というものを浮き彫りにすることができますし、そこで生きる人々の利益にもつながると思うのです。そして私は後者に当たる部分を、新たに『貧困学』と呼んでいるのです。」(317−319項)

著者はフィールドの人らしく、様々な地域(アジア、イスラーム圏、アフリカ)のスラムに足を運び、共に寝起きし、その実態を観察しています。その具体的なケースの紹介が非常に興味深く、面白く、また考えさせられます。

アジアをフラフラ旅行していると、どうしても貧困層が目につきますが、その中で生まれる疑問、例えば物乞い「業」の構造(物乞いで得られる収入が上部組織に吸い取られる)であるとか、何故貧困状態にあるのに太った人が存在するのか、あるいは普段どのような生活をしているのか、何を考えているのか、といったものにこの本はある程度まで答えを与えてくれると思います。

例えばスラムの人たちは低予算高カロリーな「貧困フード」(例えばフライドチキン!)という、ある程度共通したものを食べていますが、野菜は低予算ですが低カロリーのため十分に摂ることができないことが多く、必要なビタミンはサプリメントで補充しているとのこと。スラムでは失業状態が常態である場合も多いので、高カロリーのものを食べ続け、さらに運動量も決して多くないため肥満になるとのこと。(44−46項)

また、出生届等も出していない(法的にも婚姻していないことが多い)上、地域によっては路上生活者に誕生日を祝う習慣がない=自分の正確な年齢が分からないため、ある程度の年齢以上になると適当にキリのいい年齢を自己申告するため、人口ピラミッドで5の倍数の年齢人口が格段に多くなる(例としてインドネシアが挙げられている、137−138項)というのも面白いですね。

「医療」や「生死」について考えさせられるのは、本書で述べられているインドの(伝統的・「呪術的」)薬売りのエピソード。マドゥという物乞いの老婆の体調が悪くなり、手術をする必要があると医者に告げられた(診察は無料)が、当然その費用を払う余裕はなく、孫とともに路上に横たわって死を待つことに。噂を聞きつけた伝統薬売りが来て、「金が払えないから帰ってくれ」というマドゥに対して、「金はいらないから、もし治ったら適当にご飯でも奢ってくれ」という薬売り。毎日毎日マドゥの元を訪れ、薬を与え、力づけるも努力むなしく、誰の目にも彼女の命は今夜限りだろうということが明らかに。薬売りはその時から彼女の臨終までずっと手を握り締め、最後まで死を見届けた。最初から一部始終を見ていた著者は薬売りに問いかける。どうしてマドゥの治療をしたのか。彼は答える。「わしが薬売りだからだよ。薬売りというのは病気の人を助けるために存在しているんだ。もし治せないなら、手を握り励ますことで心を支えてあげればいい」(144−147項)

アジアなんかでよく見る「花売り」(本書では物売り / 物乞い型と記載)の連携プレーも面白かったです。売春婦とともに歩いていると売春婦が「花を買って」とねだることがあるらしいのですが、例えば客(花の買い手)が60円払うとすると、その60円は一体どこにいくのでしょうか。なんと最終的には花売り(子どもが多い)、売春婦、花束の作り手(おばちゃんが多い)三者に平等に20円ずつ入る仕組みになっているとのこと。そのカラクリは以下の通り。まずおばちゃんが花束をつくって、近くの花売りの子どもに30円で渡す。子どもは客に60円で売る(売春婦がそのような値段で買うように仕向ける)。子どもは売春婦のお姉ちゃんに60円で買ってくれるよう仕向けたお礼に手数料として10円渡す(子ども20円の儲け確定)。その後に、売春婦が「プレゼントしてもらった」花束を引きとって、作り主のおばちゃんに10円で売る(おばちゃん、売春婦20円の儲け確定)。よくできた連携プレイで、何一つ無駄な人物・行動がありません。(163−165項)

他にもレンタルチャイルドや物乞いビジネスのヒエラルキー、稼ぎの例等、興味深い事例は沢山あるのですが、著者の他の本を読んでみたいと思います。



アジアを旅行することが比較的多かったので、私も所謂「スラム」という場所には何回か遊びに行ったり、物乞いと接したことがあります。その中でも特に印象深いのは二つ。一つはインド、一つはカンボジアです。

数年前にインドのバラナシの鉄道駅で電車を待っていた時のこと、両足のない子どもが物乞いにやってきました。その時バナナを持っていて、買ったはいいものの量が結構多かったので食べきれず持て余していたので、残り数本全部その子にあげました。物乞い時は「ビジネスフェイス」をしていたその子も予想外の収穫だったのか、破顔一笑、気持よくお礼を言ってきました。
その数分後、今度は両足のない別の子が物乞いに。体格が少し小さいので、どうやら弟のようです。ついさっきバナナも全部あげたし、小銭もないし、ということを伝えるけどなかなか食い下がらない。すったもんだしているところに、さっきバナナをあげたお兄さん(?)がやってきて、弟(?)を厳しく叱りつけました。弟は納得したようで別のところにいったのですが、お兄さんがこちらを見て一言「ごめんね」とはにかみました。
どうやら同じ人から何度も取らない(少なくともそのグループからは)という了解があるらしく、妙に感心してしまいました。相変わらず電車が来ないので(インドなので)ボーッとしていると、さっきの兄弟ともう一人男の子が駅の片隅に集まってさっきあげたバナナを分けあっています。その時「人は一人にて生くるにあらず」というのが分かった気がしますし、「社会」というものの存在を実感した気がしました。


カンボジアの首都プノンペンには大きなスラムがそれこそ旅行者の目にもつきやすいところに沢山あるのですが、面白かったのは使われてない電車を占拠して出来たスラム。電車の中で暮らしてるわけですね。そこに遊びに行ってみたのですが、挨拶してみるとすごく友好的で電車の中に入れてくれて、中を見せてくれました。内戦中に村から逃げ出してきて以来居着いたとのこと。子どもが帰ってきて、どういうわけかケーキを持ってて、一緒にご馳走になったので、翌日お礼に果物を結構たくさん買って持っていったら物凄い喜びようでした。お礼に携帯電話をプレゼントされかけたので、さすがにそれをもらったら先方に不都合が生じるんじゃないかと思い、記念に写真を撮らせてもらうだけに留めました。

プノンペンは他にも川沿いのスラム(ここは治安いい)に遊びに行ったり、スモーキーマウンテン(新旧あります)に行ったりしました。

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