2012年1月17日火曜日

フリースラント恐るべし

今日面白い話を聞きました。

イディッシュ語の先生が仕事でオランダに行った時の話なのですが、フリースラント(Fryslân)に行って郊外のSneekという街に行った折、中学・高校に当たる中等教育機関に見学に行きました。そこでゲルマ二ストの先生と話が盛り上がり、折角だから、ということで学校の見学をさせてもらうことになりました。通された教室(10年生)は近代的なもので、黒板などという前時代的なものはなく、スクリーンがかけられるのみ、ペンやノートなどという遺物はどこにも見られず、生徒一人ひとりにパソコンが与えられていたことにまずびっくりしました。

そして、これはオランダの事情みたいなのですが、科目ごとに先生が使う言語(オランダ語・フリジア語Frysk・英語)を決めるそうです。化学は英語、歴史はフリジア語、文学はオランダ語…と言った風に。これにも驚いた。
その後そんなことも全部吹っ飛ぶほど驚いたのは、そのゲルマニストの先生の質問に対する生徒の反応。イディッシュの先生がそこにおられたので、次の質問がされました。

「イディッシュ語って知っていますか?それは何?」

その瞬間「その教室のほぼ全員の生徒」が挙手をし、なんと当てられた生徒がスラスラと

「イディッシュ語は西ゲルマン語系に属する言語で中高ドイツ語に淵源し…」

と答え始めたというのです。「知ってる〜、ユダヤ人の言葉でしょ~」くらいの答えを予想していたので、話を聞いてた私もぶったまげました。
さらにゲルマニストの先生が続けて、

「よろしい。ではイディッシュ文学について何か知っていることを教えてください。」

と質問すると、数人の生徒が挙手し、ある女生徒が答えて曰く、

「少し記憶が曖昧で自信がないのですが、アイザック・バシェヴィス・シンガーはイディッシュで著作をものしたように記憶しております」

と答え、ここまできたら隅で聞いていたイディッシュの先生、驚くというよりも、もう恥ずかしくていたたまれなくなったそうです。

果たしてフリジア語に関して同様の質問をされた時、この子達程に答えられるだろうか?
イスラエルで同じ質問を同じ歳の子にして、果たしてどれだけの子がきちんと答えられるのだろうか?

この話を聞いていたイスラエル人も「フリジア語ってなに?」というレベルだったので、ショックだったみたいです。
これを奇貨とし、皆少数言語に関し関心を持って学んでいければいいですね。僕もヨーロッパの言語に関しては穴が多いので、これを機にまたゲルマン諸語も勉強してみたいと思います。

クルアーンの「十の戒め」その後


前回のエントリーに関してですが、17章よりも6章151-153節ではないのだろうか、と某教授が教示されているのを知りました。
私自身も他にないかと探してたのですが、確かにここの方が「列挙」という表現には合いそうです。

言え、「来るがよい。おまえたちの主がおまえたちに禁じ給うたものを私が読み聞かせよう。おまえたちは彼になにものをも並び置いてはならない。そして、両親には善行を。また、困窮からおまえたちの子供を殺してはならない。われらがおまえたちと彼らを養う。また、現れたものにしろ隠れたものにしろ不道徳に近づいてはならない。また、アッラーが禁じ給うた命を正当な理由なしに殺してはならない。これが彼がおまえたちに命じ給うたものである。きっとおまえたちは考えるであろうと」。(Q6:151、日本語訳は中田香織訳、中田考監訳『タフスィール・アル=ジャラーライン』第一巻、日本サウディアラビア協会、2002年より。363−364項。)
孤児の財産には、彼が成人に達するまで、より良いことをもってのほか、近づいてはならない。升目と秤は公正に量りきれ。我らは誰にもその能力以外のものを課すことはない。また、おまえたちが言う時にはそれが近親の者であっても公正にせよ。また、アッラーとの約束は果たせ。これが彼が命じ給うたことである。きっとおまえたちは教訓を得るであろうと。(152)
これがわれの真っすぐな道である。それゆえ、それに従え。諸々の道に従ってはならない。それらはおまえたちを彼の道から離れさせる。これが彼がおまえたちに命じ給うたことである。きっとおまえたちは畏れ身を守るであろう。(153)

確かにこの箇所の「要約」ですと、件の問題のような「十の『戒め』」として抽出できるかも知れません。というわけで、一つ前のエントリーで「改竄」と言いましたが、この箇所を元にしているのであれば「改竄」とまでは言えません。訂正致します。
勿論これは「クルアーンのこの箇所の要約としては的確」、という意味以上のものではなくて、他ならぬこの三節を抜き出して、特別に「十の戒め」と呼ぶのは極めて恣意的であり、少なくともイスラームの伝統に則ったものではないと思います。

これも別の研究者の方の指摘なのですが、有名なبني الإسلامで始まるハディースには六信五行の「خمس五」という数字がはっきり出ているのですが、このように数が示され、そのことにコンセンサスがあるのはイスラームでは稀だそうです。個人的な印象といて、イスラームの学者の各々の著作(セファラディーも同じようなメンタリティだと聞きますが、まだなんとも言えません)は極めて整然と整理され、「~は大きく二つに大別される。」「~には三種のものがある。」という風に書いている文章が多いような気がしますが、言われてみれば確かにそうかなあ、と思わされます。

なお、「十戒」ではないですが、シーア派のハディースでبني الإسلامに似たものがあるそうなのですが(内容ちょっと違う)、この場合礼拝、断食、巡礼、浄財、ولايةイマームの権利の承認、の「五行」とはならず、これにプラス5(とولايةの変更)の項目を立てて、謂わば計「十行」、即ち「礼拝断食巡礼浄財、ジハード、5分の1税、善の命令、悪の禁止、تولى آهل البيت「家の人びと」への忠誠、تبرآ(前のものに敵対する人びととの)絶縁、とするのが通説とのこと(12イマーム派以外も?)。私はシーア派はあんまり良く分からないのですが面白いですね。なおこの場合も件の問題文は「クルアーンには…」とあり、ここではハディースの話をしているのでこれが「十の戒め」とはなりません。念のため。

さて相変わらずこれの出処が気になっているのですが、嫌味でもなんでもなく、日本語でも良いのでもし本かなんかで見つけたのであれば、その出典を知りたいのです。あんまり類書がないので。というのは、これ、もろ「イスラーイーリーヤート」だからです。古典で出典があればいいのですが、現代の学者が書いた本にはまだ今のところ見つけられていません。

2012年1月15日日曜日

昨日のセンター試験・倫理に抗議


昨日行われた、大学入試センター試験「倫理」の第2問設問6に、イスラームとユダヤ教の比較という問題が出たことを知りました。
問題自体はまだ http://www.asahi.com/edu/center-exam/shiken/rinri/rinri009.html 等で見る事ができますが、そのうち消えるかも知れないため、問題文を掲載しておきます。


問6 下線部fに関して、クルアーン(コーラン)には、神がモーセに下したとされる十戒同様、十の戒律が列挙されている箇所がある。次に示す両者の要約を読み, イスラーム教とユダヤ教を比較した記述として最も適当なものを、下の①~④のうちから一つ選べ。

【クルアーンの十の戒律】
神に並ぶものを配してはならない。
両親によくしなさい。
貧乏を恐れて子を殺してはならない。
醜悪なことに近づいてはならない。
理由なく命を奪ってはならない。
孤児の財産に近づいてはならない。
十分に計量し正しく量れ。
発言する際には、公正であれ。
神との約束を果たせ。
神が示した正しい道に従え。

【モーセの十戒】
私以外のどんなものも神とするな。
像を造って、ひれ伏してはならない。
神の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖とせよ。
父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家をむさぼってはならない。

① 両宗教ともに神を唯一なるものと考え、唯一神以外の神を崇拝することを禁止しているが、ユダヤ教では偶像崇拝を許容している。
② イスラーム教の神は超越者ではないので、超越神を信奉するユダヤ教のように、神の名をむやみに唱えることを禁止する戒律はない。
③ 人間の健康と福祉は両宗教において何よりも重視されているので、ともに過労を防ぐために一切の労働を停止し休息をとる日を定めている。
④ 両宗教が定める倫理規範においては、力点の置き方が多少違うものの、ともに親孝行と並んで社会的な振る舞い方が規定されている。




眠い目をこすりながらパソコンを開け、このような問題が出たという事実を知り、一気に目が覚めてしまいました。

クルアーンに「十戒(十の戒律、「十戒同様、十の戒律が列挙されている箇所」)」など、ありません。
少なくともそのような言い方はしません。
そして(参照していると仮定して)原文の要約にもなってません。

内容からして、おそらくクルアーン17章22節~39節に取材したと思われる(別の箇所かも知れないし切り貼りかも知れませんが)のですが、これを「十戒」などと呼ぶ伝統は聞いたことがありません。近代以降のユダヤ教の猿真似をしたい、アメリカ=イスラエルの勝ち組に対抗したい、という欲望が働いて提唱した資料や人物、あるいはこのようなことを述べる西欧文明産の比較宗教学者(さすがにいないと思いますが)がどこかにいるのかも知れませんが、少なくとも私の同僚・先輩の専門家に相談してもそんな「十戒」など知らぬ存ぜぬ(当たり前ですが)。日本人の専門家が書いた「まともな」イスラームに関する本でもこのような記述が出てくるようなことはあり得ません。少なくとも私は知りません。そして古典ではクルアーンのこの箇所を「十戒」などではなくむしろ「二十五戒」と述べる程です(例えばジャラーラインのタフスィール17章22節参照)。

誰が問題文を作ってるのか知りませんが、仮にも大学入試センター試験という、受験生にとっての登竜門のみならず、明日以降も未来の大学受験生が「過去問」として勉強し、また有志の方々が今日明日と「力試し」で解くことになる問題です。もちろん人文科学における実証主義的真理(ここでは、問題における「問い」「答え」の内容は「真実」であるということ)なんていくらでもケチのつけようがありますが、この問題の妥当性は論外です。プラクティカルな側面からすれば、例え問題文の内容が偽でも「読解」として解けるので受験生諸氏には問題がありませんが、この「問題文は真である」=「イスラームにも十戒(十の戒律)が存在するという衝撃の事実!!」ということを鵜呑みにする方々が日本に大勢おられるはずです。

「(ラビ)ユダヤ教」と「イスラーム」を、伝統を共有するアブラハム的一神教として捉え(特にイスラーム)、なおかつキリスト教と二者の対比を図るためにハラハー・シャリーア(フィクフ)(らしきもの)を持ち出すのは構わないと思いますが、流石にお粗末というか、そもそも間違ってます。

そして間違ってるのも最悪なのですが、さらに輪をかけて、その「十の戒律」なるリストの文言じたいも、原文におそらく手を入れて(原形がよくわからない)「改竄」した酷いものです。つくづく酷いですね。



素朴な疑問なのですが、出題者はどこでこの「アイディア」を入手した、あるいは思いついたのでしょうか。
私がルートとして思いつくのは、

① ろくでもない「入門書」「概論」、あるいはよくわからないムスリムから直接聞いた内容から引っ張ってきた
② 問題文作成の便宜のため自ら「十戒」をクルアーンから抽出した
③ 「イスラーム」という、同じ名前でよく似た宗教体系を持つ、別の宗教がこの世のどこかに存在し作成者はそのことに明るかった
④ 啓示を受けた
⑤ 神秘主義的コミュニケーションにより預言者ムハンマド(SAS)に教えてもらった

くらいです。

①が一番ありそうに思えますが、仮にも天下の大学入試センター試験の出題者はこんなおっちょこちょいな性格をしていて務まるものなのでしょうか。そもそもその地位まで昇りつめるのが難しいように私には思えますが。
②がその次にありそうに思えますが、そんな面倒なことをするくらいなら「入門書」かなんかを呼んで別の問題を作ったほうが費用対効果が高そうです。あるいは「十戒は必ずイスラームに存在するのだ」という確固とした信念の持ち主で、「発見」したのかも知れません。
③上に関連するのですが、人口に膾炙した「イスラーム」というアラビア半島生まれの宗教体系とは別の宗教体系で、「イスラーム」という宗教が存在する可能性は否定し切れません。出題者がその信者である、としたら平仄が合いますが、上のように「発見」したのであれば信者数はまだ一人だけかも知れません。あと、仮にこれが真だとすると、ややこしいので別の名前を使ってくれると非常に助かります。
④啓示を受けたと主張するのであればしょうがないですが、イスラームの伝統ではムハンマド(SAS)で預言の封印がなされますので、むしろシーク教やバーブ教、バハーイー教等とよく似た道程で生まれた、私たちが知る「イスラーム」とは別の宗教になるでしょう。
⑤啓示ではなく、スーフィーの伝統に置いて超自然的コミュニケーションでもって真理(の一部?)を獲得したというのであれば、まずはイスラーム内部でコンセンサスを得た段階でセンター試験に問題として出題するべきでしょう。余計なお世話だとは思いますが、あまりこういうことは自分から広めない方が安穏な人生を送れるかも知れません。真理は茨の道と言われたら頑張ってくださいとしか言えませんが…。


いや、本当にどういう経緯でこうなったのか気になっています。
日本はイスラーム圏との歴史的交渉が必ずしも長くないのにも関わらず、戦前より極めて優秀なイスラーム学者(特に歴史)を輩出し、関連する啓蒙書・専門書のレベルも高いのに、なぜこのような問題が生まれたのか、ということで。
たとえばこれが各地カライ派とかドゥルーズ派とかイエメンザイド派とか山岳ユダヤ人の慣習とかのコアな問題なら、まあまだわからんでもないのですが。

2012年1月13日金曜日

フーリーの家系とその周辺


Culi, Rabbi Yaakov(trans. by Kaplan, Rabbi Aryeh), 1980(1730). The Torah Anthology: Yalkut Meam Lo'ez Genesis 1, New York / Jerusalem: Moznaim Publishing, pp. xv-xxix.

カプランの英訳Me'am Lo'ezの翻訳者序に記されているフーリーの生涯とその周辺をまとめておきます(pp. xvii-xxii)。
なお、メアム・ロエズ以外の作品は全てヘブライ語作品です。

まず父系から。フーリーの父はRabbi Meir Huli(1638-1727)。まずそもそもこのフーリー家ですが、そもそもはフランスのCholetという町に淵源するらしく、アシュケナズィーのラビに遡ることが史料で示せるとのこと(p. xvii)。その後このCholetからクレタに移住し、フーリー姓となっていくようです。クレタには古くからユダヤ人のコミュニティがありましたが、特にヴェネツィアがビザンツ帝国から1204年に購入して以来、ユダヤ人の数が激増したとのことです。ヴェネツィア人達はクレタの都市を要塞化し、ユダヤ人たちをよく治めていたため、1492年のイベリア半島追放後もユダヤ人たちを吸収し、当時のRomaniot Jews達はセファラディー化したようです。
さてその後オスマン帝国がクレタの奪還を図ります。1645年には島に上陸し、近代史では最も長い期間(ほんと?)、24年に亘って包囲し続けます。その間ヨーロッパから義勇兵がヴェネツィア側に立ち馳せ参じるのですが、最終的にクレタ島全体がオスマン帝国に降服します。これが1669年9月27日のことでした。フーリー家はかなり裕福な家系だったのですが、クレタ島がオスマンの手に落ちたことにより状況の悪化を実感し、1688年、彼が50歳の時点でクレタを離れエルサレムに落ち着きます。

その当時エルサレムにいた学者で有名なのはRabbi Chezkia di Silva(1659-1698, Pri Hadash), 1668年初代のリション・レツィヨンに任命されたRabbi Moshe Galanti(1620-1689), そしてフーリーの祖父となるRabbi Moshe Ibn Chaviv(1654-1696)です。ラビ・モシェ・イブン・ハヴィーヴと会って間もなく、メイール・フーリーは彼の娘と結婚し、1689年ヤアコヴ・フーリーが生まれます(なお彼の生年に関しては二次資料によってブレがありますが、Kaplanの注によると1689年説が説得力を持ちます)。

さて母方の家系ですが、元々はサロニカの出らしく、モシェ・イブン・ハヴィーヴは1669年にエルサレムに来たとのこと。そして上記モシェ・ガランティの妹と結婚し、一時(1677年に確認できるとのこと)はコンスタンティノープルにいたが、その後慈善家のMoshe ibn Yaush of Constantinopleによって、エルサレムにイェシヴァーを作るために戻されたとのこと。このモシェ・イブン・ハヴィーヴはEzrath Nashim(一人だが正式な離縁状を持たない妻を論じた作品), Get Pashut(離婚についてのハラハーを論じた作品), Yom Teruah(ショファルについての作品), Tosefoth Yom Kippurim(大贖罪日のハラハーについて), Kappoth Temarim(スコットの四種の祭具について)という作品をものし、後半三つはShemoth be-Aretzとしてまとめられているようです。
このイブン・ハヴィーヴ家ですが、この家系も学者の家系で有名な学者を輩出しています。一人がRabbi Yosef Chabiba(15世紀?)、Nimukey Yosefという、Rabbi Yitzhak Alfasi(1013-1103)のSefer ha-Halachotのコメンタリーを書いた人です。もう一人はRabbi Yaakov ibn Chaviv(1459-1516)、かのEyn Yaakovを著した人です。Kaplanなんかは「カプランは彼の先祖が当時の偉大なタルムード学者の一人であり、大衆向けのEin Yaakovを著したという事実に感銘を受けた」(p. xix)と書いていますが、出典が書かれていないので何とも言えませんが、是非見つけたいです。

ようやくラビ・ヤアコヴ・フーリー本人に辿り着きました。前述したとおり彼は1689年エルサレム(ツファットというMolhoの見解もある)に生まれ、祖父モシェ・イブン・ハヴィーヴの膝の上でスクスクと育ち、6歳にして祖父のタルムード解釈に質問するまでになったそうです。その後彼が7歳の時に祖父が亡くなりますが、どうも祖父及びおそらく祖父の出自に関してはかなり意識していたみたいで、メアム・ロエズのプロジェクトを開始する前のフーリーは祖父の作品・遺稿の整理を行い、アシュケナズィーの世界ではむしろそちらの方で有名です。
祖父が亡くなった翌年、今度は実母が亡くなってしまい、その後フーリー親子はヘブロン、次にツファットに行きます。ツファットで彼は祖父の遺稿の整理・編集を始めたようです。1713年に聖地への旅をしていた、印刷業も営むコンスタンティノープルのラビ、Chaim Alfandriに出会い、二人で一年(エジプト経由)かけてコンスタンティノープルに辿り着きます。それが1714年のことでしたが、当地ではまだシャブタイ・ツヴィの後遺症が響いていたようで、モラルの低下やユダヤ教離れが著しく進んでいる現状を付きつけられたようです。当地で教師の職を得ながら祖父の原稿整理・編集を続け、Chaim Alfandri及びその親類のYitzchak Alfandriの援助を受け、1719年にOtorokoiにてGet Pashutの印刷に成功します。さて当時のコンスタンティノープルのリーダーはRabbi Yehudah Rosenesだったのですが、フーリーの若き才能に目をつけ、彼のもとで働かせ、当時弱冠30歳にも関わらずBeth Din(ラビ法廷)のメンバーに任命します。その後数年してコンスタンティノープルの師、Rabbi Yehudah Rosenesが亡くなるという悲しみとともに、祖父のShemoth be-Aretzを出版します。
祖父の遺志を果たした今、フーリーが次にやるべき仕事は、もう一人の師、Rabbi Yehudah Rosenesの著作を整理・編集し、世に出すことでした。彼が亡くなって一年後には既にParashath Derakhim、族長時代の自責からハラハーを引き出した説教集を出版します。なお、この本の序文にはフーリー自身が作品について、また師を喪った哀しみについて述べられています。
しかし、フーリーの名をMe'am Lo'ez以外でも輝かしめているのは、Mishneh la-Melekhという、マイモニデスのミシュネー・トーラーの註釈書です。ヘブライ語版のYalkut Me'am Lo'ezで訳者のShmuel Yerushalmiがフーリーを「Mishneh la-Melekhの編集者」として紹介しますが、それほどまでにこの作品はユダヤ人学究者の間で受け入れられたようです。ミシュネー・トーラーは(私も一部読んだことがありますが)、読者にとっていまいち良くわからない箇所が散見され、またその典拠が示されていないという作品で註釈が必要なのですが、このMishneh la-Melekhはフーリーとその師の共同作品のようになっているようで、今でもミシュネー・トーラーに大体これがセットで載っているとのことです。本作品の編集にフーリーは3年をかけ、1731年に出版。その8年後にはミシュネー・トーラーとセットで印刷されたようです。

それと同時に1730年、同僚ラビの無理解にも関わらず自分の信念に従い、大衆向けにMe'am Lo'ezの創世記を完成・出版。本人自身は出エジプトの途中まで執筆した後、1732年8月9日(アヴ月19日)に若くして世を去るのですが、本書はシャブタイ・ツヴィ騒動で疲弊したセファラディー世界の「精神的ルネッサンス」とも言うべき大復興を巻き起こし、それだけでなく、本書によってその後200年以上続く「ユダヤ・スペイン語文学」の幕が開けることになります。メアム・ロエズというプロジェクト自体は今までのエントリーでも紹介したとおり、彼が序文に書いたように、彼の遺志をついで有徳の志が後に続き、完成させていきます。